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――「ファミ通」でゲームの最新情報が解禁されることが多かったですもんね。いち早く手に入ることの意味が、今よりも断然ありました。

桃井 あとそう、秋葉原ではゲームの情報が早く手に入るのもですけど、「ゲーム雑誌の編集が大量に別の会社に引き抜かれて困っているらしい」なんて噂が聞けることもあったんですよ。

――……ああ! 「角川お家騒動」! そうか、ゲームマスコミの人間も情報を集めに来ているから、自然と秋葉原にはそんな情報も……。

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桃井 それから、当時沢山仕入れたのに売れ残るゲームがあると「アラモゴードに埋めに行くか」とお店の人がよく言っていました。80年代、クリスマス商戦で余ったAtariというゲームマシンの『E.T.』のソフトが新品のままニューメキシコの埋立地のに大量に埋められてるという都市伝説があったからです。アメリカのニューメキシコなんて別世界の話だと思っていましたが、それが真実だったことが2014年公開の映画『Atari: Game Over』で突き止められました。あったのはパソコン通信くらい、インターネットは学術的にしか使われていない当時に、アメリカから秋葉原までどうやって噂が流れてきたんだと、興奮しましたね。

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――お話をうかがっていると、90年代前半の秋葉原は、なんだか少し世間や周囲からはみ出してしまった人たちにとって居心地のよい空間だったような印象を受けますね。

桃井 居心地がいい場所ではありましたね。その理由があるとき、分かったんです。

――なんでしょう?

桃井 秋葉原にはひとりで来ている人が多かったんですよ。他の繁華街はカップルや友達同士で行くことが多いと思うのですが、秋葉原は昔も今も、圧倒的にひとり率が高い。で、みんな、自分の目当てのものに向かって一心不乱に歩いている。まわりのことをそんなに気にしていない街だから、いろんな人にとって居心地がよかったのかなと思います。

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――小学生の頃から足を運び続けた秋葉原が、変わったように感じたタイミングはありますか?

桃井 私が高校生のときに、「おっ」と思った瞬間があったんです。「くず屋うさぎ堂」という、いわゆる「ジャンク屋」で、時給の高さに惹かれて働き出したときでした。友達と一緒に働いていたんですけど、その子はギャルで、ジャニーズとスケーターが好きな子だったので、全然パーツの詳しい情報とかは知らないんです。でも、それでいいと。笑顔で「いらっしゃいませ~!」と言って、お客さんに分からない質問をされたら、店長を呼べばいいと言われました。とにかく大事なのは、袋に丁寧に商品を入れて、笑顔で渡すことだ、と。「アキバの男たちはみんな寂しいから、女の子に笑顔でジャンク品を渡してもらうだけで嬉しいものなんだ」みたいなことを言われたのを覚えているんです。

――身も蓋もない……(笑)。

メイド喫茶の原型(?)とも言えるアルバイト体験

桃井 「そんな簡単な仕事でいいの?」と思いましたよ(笑)。当時、他のバイトだと、レジ打ちの人はずっと立っていないといけなかったんです。それで時給650円くらい。で「くず屋うさぎ堂」ではお客さんがいないときは座っていてもよかったですし、店内の音楽も好きなものをかけてよかった。好きなアイドルの曲をかけていると、反応してくれるお客さんがいたりもしたんですよね。それで時給が950円とか、信じられないなと。で、今考えると、この「くず屋うさぎ堂」のオーナーのやっていたことは、先見の明があったなと思うんですよ。まだメイド喫茶の「メ」の字も無い時代に、ものを売るのではなく、接客に特化したお店を作っていたわけですから。

 

――たしかに。

桃井 結局、「くず屋うさぎ堂」は万引きも多くて、1年も経たないくらいの短い期間で畳んだのですが、最近Twitterでオーナーと再会して、トークライブにゲストとして来ていただいてお話をしたんです。今は「ゲッキー@激安超特価商店街」というアフィリエイターになっているんですよ。最近もアニメの上映会をやったり、面白い活動をされているみたいです。余談ですけど(笑)。ともあれ、「くず屋うさぎ堂」での接客体験は、秋葉原の変化を感じた瞬間……そして、私の「萌え」の発想の原点になっているかもしれないですね。(#2に続く)

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。