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 しかし、ナポレオンとの戦いは、それ以前にクラウゼヴィッツが経験した戦争とは「同じ「戦争」というカテゴリーに含まれる活動であるのを理解するのも困難であったほど」に異なっていた(ハワード2021)。

 ナポレオンが創設した大陸軍は、「18世紀の他の国の陸軍では対応できないほどの死傷者を出しながら戦」う「獰猛な戦争」を遂行することができる、全く異なる種類の軍事力であった(Knox and Murray,2001)。

 こうした戦い方を可能とした要因の一つが、フランス革命後に導入された国民皆兵制度であったことはたしかであろう。しかし、こうした制度的な革新は、「獰猛な戦争」の全てを説明するものではない。ナポレオン時代に軍隊に動員された国民は最大で全人口の7%にも及んだが、この程度の動員はフリードリヒⅡ世時代のプロイセンでも行われていた(ドルマン2016)。

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 むしろ重要であったのは、「国家とそこに住む人々の関係が変質したこと」、すなわち「国民」としての自覚を持ったフランス大衆が国家の危機を自らの危機であると認識し、強制によってではなく自らの意志で主体的に祖国防衛に参加するようになったことであった。

 スミスが述べるように、「彼らは、もはや国王のために戦う軍服を着た農奴ではなく、フランスの栄光のために戦うフランス人愛国者だった」のであり(Smith,2005)、「獰猛な戦争」はこうした新たな大衆の存在なくしては成立しなかった。こうして、決戦を回避する「制限戦争」から、多大な犠牲を払ってでも決戦を行い、雌雄を決する近代的な国家間戦争への転換が生じたのである。

 それゆえに、クラウゼヴィッツは、近代的な国家間戦争は政府と軍隊だけで成立するものではないと主張した。戦争は、国家が政治的目的を達成するための手段であり、これを遂行するのは軍隊による暴力闘争であるが、そこには国家と自己を同一視して大量の犠牲を払う覚悟を持った「国民」という存在が絶対に必要とされる――これがクラウゼヴィッツのいう三位一体論であった。

ウクライナは弱くない

 このモデルをウクライナに当てはめてみると、現在の同国には三位一体が比較的きれいに揃っているように見える。ウクライナの政治的目的は侵略の撃退というシンプルでわかりやすいものであり、軍事力は決して弱体ではない。

 さらに開戦後の世論調査が示すように、侵攻が長期化したり、ウクライナの独立性がさらに脅かされる事態になったりしても、「領土に関する譲歩を支持しない」と答えたウクライナ国民の割合は82%にのぼっていた。国民はあくまでもロシアの侵略に抵抗することを選んだわけである。

 この結果、ゼレンシキー政権は開戦後に発動した総動員によって5月には70万人の兵力を確保し(前述のように開戦前は凖軍事部隊も含めて30万人であった)、7月にはこの数字を約100万人(ウクライナ軍70万、警察部隊10万、国家親衛軍9万、国境警備隊6万)まで増強することができた。