斎藤 ええ。
資本主義の再デザインは可能なのか?
成田 でも脱成長論者の主張は、その前進だけでは十分ではない、だからまったく別の方向に進まなくてはいけないと言っているようにも聞こえます。つまり、進んでいる車が渋滞しているから逆走しようと言っているのに近い。
少しずつでも前進している今の仕組みをやめて、なにか別のシステムに変えたとき、それが以前のものよりうまくいくという論理がぼくにはよくわからないんですよ。加えて、それが実現可能であるという論理もよくわからない。
仮に過剰な脱成長を実現しようとして、いまの富の総量を一気に再分配するとしたら、たぶん世の中の50%を大きく超える人たちが生活水準をものすごく下げることになるはずです。
斎藤 もし、世界規模で再配分をすればそうなりますね。
成田 それは政治的にどうやっても実現不可能な提案じゃないでしょうか。なので、僕は脱成長路線が実現可能かどうかがまず怪しいと思っています。
最後に付け加えると、脱成長論者の人たちが、脱成長という提案を自分自身の人生に適用していないのではないかという疑念がある。つまり、仮に世界全体の人類の平均的な生活水準があったとして、脱成長路線を提案している論者たちがそのレベルの生活を受け入れる準備があるかというと、どう見てもないように見えます。
まとめると、脱成長路線はそもそも論として望ましいのかどうか、脱成長路線は実現可能かどうか、そしてその脱成長論者たちの生活と思想が整合的かどうか、その三段階のすべてで怪しい気がしてくるのですが。
斎藤 少なくとも地球環境は、このままの社会が進めば数十年の間に相当ぼろぼろの状態になっていく可能性が高いわけですよね。そうなってくると私たちが前提としていた社会観や経済は成り立たなくなってしまう。
にもかかわらず、今まで通りの生活を続けていていいのか? 脱成長を考える上で、このことから目を背けてはいけません。もし、仮に効率性や成長だけを追求していけば、究極的にはマイノリティのことだって考える必要はないじゃないか、という方向に行ってしまうかもしれない。
成田さんの言う「無意識データ民主主義」も、そういう無意識で動かされてしまったら全然いい社会にならないのではないか。だから、資本主義に制限をかけて、はじめて無意識の民主主義だって成り立つんだと僕は思うんですよ。そのことをどれくらい強く打ち出すか、そこが問題です。
(第2回に続く)
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