陛下と美智子さまは並んで先を行かれた。その足は意外なほど速く、ぐんぐん進まれるので、こちらが油断していると置いて行かれてしまう。同行した宮内庁職員と話をしながら歩いたこともあるが、お二人に付いて行くのが精いっぱいだった。そのうちに道から外れ、枯芝が広がるところに出た。両陛下は歩き続ける。行き先はおっしゃらない。御所からは離れていく方角だった。私たちは「どこに行くのだろう」と思いながら付いて行った。
陛下はそこまで来てようやく……
枯芝の先に古い、いかつい重厚な建物が立っていた。陛下はそこまで来てようやく、
「ここですよ、この前のお話に出ていた防空壕の入口は」
と教えてくれた。草木に覆われた向こうにコンクリートの壁と鉄の扉がわずかに見えた。私と半藤さんは顔を見合わせて、両陛下のお心遣いに感謝した。
陛下は私たちに向って、
「ここで終戦の時の会議が開かれたんですね。今はタヌキが住んでいるらしいですよ」
そう笑顔で言い添えた。
陛下にうながされる形で、私たちは防空壕の入口に近寄った。分厚い鉄とコンクリートで作られた建造物であることは一目でわかった。鉄の扉を触り、鉄格子越しに中を覗いてみたが、その奥がどうなっているのかは暗くてまったく見えなかった。
戦争末期、長野県の松代で大本営移転のための工事が進められたが、それ以前に皇居内に会議ができる大本営の防空設備が必要だとなり、陸軍築城部が建設したのがこの大本営防空壕だった。昭和天皇が空襲を避けるために使われていた住居兼防空施設「御文庫」と地下通路でつながっているので御文庫附属庫とも呼ばれる。この2つをつなぐ地下道は、今はどうなっているのだろうと私の関心は深まった。私たちはしばらく滞在した後、防空壕の草むす周囲をぐるりと廻って御所に戻った。
宮内庁はその年の8月、戦後70年の終戦記念日直前にこの防空壕内部の写真を公表した。御前会議が開かれた会議室の床も壁も朽ち果てていたが、爆弾が落ちても崩れないように梁を格子状に巡らせた、特徴的な台形型の天井は、白川一郎画伯が御前会議を描いた絵画そのままの姿だった。御文庫からの地下通路の写真も公開されたが、土砂ですっかり埋もれてしまっていた。
戦後の大きな節目に合わせた防空壕の公表は、以前から決まっていたことなのかもしれない。ただ、もしかすると、半藤さんが「見たい」と申し上げたことをきっかけに両陛下が公表を考えて下さったのかもしれないとも思えた。防空壕の写真が公表された時、半藤さんが興奮しながら、「お話ししてみるものだなあ」とつぶやいたことが懐かしく思い出される。
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ノンフィクション作家・保阪正康氏による「両陛下に大本営地下壕をご案内いただく」は、「文藝春秋」2023年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
両陛下に大本営地下壕をご案内いただく