2009年11月、突然の激しい頭痛に襲われたコラムニストの清水ちなみさん。「くも膜下出血」と診断され、開頭手術を行ったものの脳梗塞を発症。手術直後には「お母さん」と「わかんない」の2語しか話せなくなったのに加え、利き手である右手には麻痺が残りました。
ここでは、清水さん自らがパソコンのキーボードを一文字一文字打って闘病について綴った『失くした「言葉」を取り戻すまで 脳梗塞で左脳の1/4が壊れた私』より一部を抜粋して、体の異変を感じた当時の様子を紹介します。(全2回の1回目/2回目に続く)
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「いきなり身体の中で何かが弾けました」
幼い頃からずっと低血圧で、貧血で倒れることもしょっちゅう。でも、2番目の子どもを妊娠した2001年あたりから、私の血圧はどんどん上がっていきました。
初めて大きな異変を感じたのは2007年11月。くも膜下出血で倒れる2年前のことです。血圧はすでに200を超え、かがんで靴紐を結ぶことさえつらくなっていました。
朝、当時5歳だった娘のチヒロ(仮名)を保育園に送っていくためにクルマを運転していると、いきなり身体の中で何かが弾けました。
クルマは真っすぐ進んでいます。道順も完璧にわかっています。でも、目を開けているのに何も見えません。必死という言葉はこういう時に使うのでしょうね。私が本当の意味で必死だったのは、自分が幼稚園の頃に溺れかけた時と、この時だけです。
幸いにも、かすかな視野を頼りに、なんとか無事に保育園に着くことができたので、先生には「お迎えは私ではなく、ほかの人がきます」と伝えました。
運が悪いことに、フリーライターをしている旦那のタケシは2週間のアメリカ出張に出かけたばかり。まだ成田空港にいる頃です。電話で私の病気を伝えたところで出張を中止にできるはずもなく、かえって心配をかけるだけ。そう考えた私は、旦那には黙っていることにしました。
さしあたっての問題は、保育園の近くになんとか駐めたクルマです。保育園の先生は忙しく、保護者も同じです。ならば友達に頼もうか、それとも専門業者を呼ぼうか。いろいろ考えたのですが、とりあえず、冷静になって自分の状態を確かめてみることにしました。
目が全然見えないということはなく、2メートルくらいまでは普通に見える。でも、その先がぼんやりしています。たとえが難しいのですが、ド近眼という感じでしょうか。結局、いつも通っている道だから大丈夫だろうということで、そろり、そろりと緊張しながらなんとか運転して帰りました。
無事に家に着いた時点で私はかなり疲れていましたが、足は動いたので出かけることにしました。青山で仕事の打ち合わせがあったからです。
自宅近くの駅までは問題なかったのですが、渋谷駅で降りた途端に、人がいっぱいいて、混乱した私は何も見えなくなって途方に暮れました。
パントマイムで「壁」の演技をする人のように手を前に出して、柱にさわって自分のいる場所を確かめながら、よたよたと歩きました。打ち合わせをなんとか終え、ひとりでお店に入り、鰯定食もしっかりと食べたのですが、やっぱり遠くの方はぼやけてよく見えません。
午後に気功の先生のところに行って「目が変なんです」と訴えても、「何だろうねえ、私には普通に見えるけど」と言われてしまいました。