薬を飲みたくない
その後、大学病院には2、3回通いましたが、お医者さまが言うことはいつも同じです。寄り目は時間が経てば自然と治ります。眼帯をつけるなら右、左と交互につけること。血圧を下げる薬を飲んでください。
でも、当時の私は、どうしても降圧剤を飲みたくなかった。かたくなに拒んでいたんです。
そんな私に、「薬を飲みなさい」「血圧を下げないとだめよ」と何度も助言してくれる人がいました。和裁教室で知り合った加藤光子さん(仮名)です。
加藤さんは私のことを、「若いのに和裁を習おうなんて、変わった子もいるものだな」と思っていたそうです。コラムニスト清水ちなみのことはまったく知らなかったのですが、ある日、新聞に入っていた「カタログハウス」のチラシで山﨑ミシンのモニターをやっていた私の写真を発見したのが運の尽きで、「これ、和裁教室の清水さんじゃない?」と気づいたそうです。それまでも一緒にお昼を食べたりしていたのですが、身元がバレてからは、仕事や家族の話もするようになりました。
加藤さんのご主人は、当時、東京大学で教授をされていて、若い頃はスポーツライターになろうと思っていたほどのスポーツ好き。東大にはスポーツの話ができる相手がひとりもいなくて、スポーツ全般にやたらと詳しいウチの旦那と意気投合して、家族ぐるみのおつきあいになりました。
加藤さんは「降圧剤を飲みなさい」と何度も諭してくださったのですが、チヒロを産む前後に、降圧剤を飲んで血圧が劇的に下がった時に「薬って怖い」と感じた私は、加藤さんの親切な言葉に従いませんでした。
私は子どもの頃から病弱で、小児結核を発症して幼稚園にもほとんど通えませんでした。幸い、人にはほとんど感染しない「塗抹陰性」でしたが、その頃から、どうせ死ぬんだしと思って、自分の人生を大切にしてこなかった。花火のようにパッと光って消えるのが人生だろうと思っていたのです。その気持ちは、自分の子どもが生まれてからも変わりませんでした。
まもなく私は、大学病院に通うのを止めてしまいました。
目の焦点は相変わらず合わず、すべてがダブって見えていました。物が二重に見えると情報も2倍になるので、本当に疲れます。特に商店街の看板は最悪で、文字がそこら中に溢れ出しているような気がして気が狂いそうになりました。バスに乗る時は、足元の段差がよく見えないので足で探ります。眼帯をつけると、情報量が減って少し楽になるので、左右を入れ替えながらずっとつけていました。
夫が帰ってくるまでの2週間
旦那がアメリカに行っている2週間近く、朝は眼帯をつけた私が5歳のチヒロをバスで保育園まで連れて行き、帰りは小学5年生のコウスケが学校とは反対方向にある保育園までわざわざ妹を迎えに行ってくれました。子どもたちもさぞかし大変だったと思います。
コウスケは小さな頃から、一日中走り回っているような元気でのびのびと遊ぶ子でした。1年生の音楽の時間には突然手を挙げて「『すずめがサンバ』を歌います!」と机の上で歌いながら踊って大評判。友達が自分のお母さんに「清水くんがおもしろかったんだよ!」と興奮してしゃべったことで、私の知るところになります。保護者面談の際には担任の先生から「あのリズム感はただものではありません!」と言われ、授業参観では、親が見ている前で、隣の席の子とおしゃべり、後ろの子とおしゃべり、最後は居眠りする始末。
息子によれば、小学校は「ちょっと遊んで、休んで(=授業)、ちょっと遊んで」という場所。家は「遊んで、(妹におもちゃを)取られて、遊んで、取られて」という場所だそうです。
元気な息子の貴重な遊び時間を奪ってしまい、本当に申し訳ないことをしました。
私は、目を休めようと、パソコンやテレビは見ないようにしていたのですが、ヒマだったので、時々お絵描きをしました。なんとなくできたのが童話みたいな『カニとおじさん』というマンガ。ボーッとしていたおじさんが無人島に流れ着いてしまい、ヤシの実をカニと奪い合うというバカバカしいお話です。子どもたちから「このおじさんの絵がかわいい」とか「こっちはかわいくない」と感想を言われながら、読み聞かせをしました。
13日間のアメリカ出張から旦那が帰ってきた時、私はへなへなと崩れ落ちそうになりました。よほど気が張っていたのでしょう。
子どもがいないところで旦那に眼帯を外して見せると、「あらあら、これは大変だね」と落ち着いた反応。「MRIを撮ったけど、異常はなかった」「寄り目は自然に治るみたい」と私があらかじめ言っておいたので、さほどシリアスには受け取らなかったみたいです。