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立ち入れぬトンネル、崩れ落ちた木橋…45年前に消えたローカル線「尾小屋鉄道」の廃線跡がディープすぎた

立ち入れぬトンネル、崩れ落ちた木橋…45年前に消えたローカル線「尾小屋鉄道」の廃線跡がディープすぎた

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なぜ尾小屋鉄道は廃線になってしまったのか?

 これまで見てきた遺構の数々は、尾小屋鉄道の歴史を物語る“代弁者”のような存在と言える。ではいったい、その歴史にはどんなストーリーがあるのだろうか。

 尾小屋鉄道は、1919年、尾小屋駅と新小松駅までの総延長距離16.8kmを結ぶ形で開業した。当初は鉱山物資などの輸送を中心に利用されていたが、1957年には物資の輸送がほぼ廃止となってしまう。積み替えの負担を軽減するために、鉄道輸送からトラック輸送に切り替えられたのだ。

鉄道による物資輸送を行っていた頃の尾小屋鉄道

 それによって、尾小屋鉄道は“旅客輸送”中心の鉄道へとシフトチェンジする。開業当初から鉱山関係者やその家族たちの“生活の足”となっていたが、旅客輸送中心になったことで観光客の利用も増えていった。

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「かつて尾小屋鉱山が最盛期だった頃、尾小屋には5000人くらいの人口がいました。小松市街地よりも尾小屋町のほうが栄えていて、パチンコ屋や散髪屋、遊郭もあったほど。尾小屋鉄道に乗って、小松から遊びに来る人も多かったのです」(坂井さん)

現役時代の尾小屋鉄道(写真=坂井稔樹さん提供)
現役時代の尾小屋鉄道(写真=坂井稔樹さん提供)

 鉄道に乗って尾小屋町を訪れる観光客が増えたことで、1959年から1962年にかけて、年間旅客数は100万人を超えたという。そんな隆盛を極めた尾小屋鉄道が、なぜ廃線の道を辿ることになったのか?

「大きな要因は、尾小屋鉱山の閉山です。一番の産業拠点だった鉱山が無くなったことで、多くの人々が勤め先を失ってしまった。それによって、尾小屋から小松や金沢に移り住む人が増え、人口の流出を止められなくなってしまったのです」(坂井さん)

 鉱物資源が海外から輸入されるようになったことで、尾小屋鉱山は次第に経営が厳しくなり、徐々に規模を縮小。1971年に全面的な閉山が決定する。

旧尾小屋鉱山の坑道を利用した「マインロード」

 それに伴い、尾小屋鉄道沿線の人口は急速に減少し、鉄道利用者も急減してしまう。小松市のホームページによると、尾小屋鉄道の旅客は1972年までの10年間に半減、同年には赤字額が収入の2倍超になってしまったという。「末期の頃は、1日の乗客数が800人程度だった」と坂井さん。

 そして1977年3月19日を最後に、尾小屋鉄道は全線廃止となった。