――それでその後、アミー・パーク所属になると。なぜアミー・パークに?
有田 『(タモリの)ボキャブラ天国』にちょっと引っかかっていたサービスパンダというコンビがいまして。その一人が、ナベプロ時代の同期だったんです。サービスパンダって、ナベプロとアミー・パークの混成コンビで、最終的にアミー・パーク所属を選ぶんですけど、当時のアミー・パークってお笑い部門にぜんぜん人がいなかった。サービスパンダとしては、芸人が増えて一緒に合同ライブができるようにしたかったから、「来てくれ」と誘われまして。それでアミー・パークに所属させてもらうことになったんです。
コンビ解散の危機、相方の返事は…
――2000年前後といえば、東京に大手プロダクションがお笑い養成所を構えていく時代です。そういう状況下で、ほとんど芸人が所属していない事務所に行くというのはなかなかの決断だと思います。
有田 スーパー弱小でしたね(笑)。僕らとサービスパンダしかいないから、お笑いをやりたいという子たちに片っ端から声を掛けていきました。実際に、僕らがネタをしているところを見てもらって、そのまま勧誘するみたいな。そんなことを続けていたら、ふとっちょ☆カウボーイが入ってきてくれたり、じゅんいちダビッドソンが入ってきてくれたりして……二人とも当時はピンじゃなかったけど、やっとこさライブができるようになったんです。
ただ、やっぱり地道なことが続いていたから、30歳を目前にして、「もうダメかな」と思いました。さすがにこんなに芽が出ないんだったら、芸人としてダメなんじゃないかと思って、相方に「もう辞めたい」と言ったんですよ。そしたら、相方から「俺はまだ本気を出してない」と言われまして。
――「親を捨てる気はあるか」とか「本気を出してない」とか剛腕すぎます(笑)。
有田 「遅くねぇ?」って思いましたよね(笑)。誘っておいて、10年経っても「まだ本気出してなかった」って何だよ!って。でも、そう言われたら、もうちょっとがんばってみようかなって思っちゃって。
そしたらどんどんメンバーが揃ってきて、2008年にはU字工事が『M-1グランプリ』の決勝に進出したり、事務所としても盛り上がってきた。でも、自分たちは一向にオーディションに受からない。「受かんねぇな、何でだろうなぁ」みたいに悩んでいて、何でもいいからテレビに出たいと思っていたら、空耳のお話が来たんです。
「空耳アワー」が心の支えに
――それは何年くらいだったんですか?
有田 今から15年ぐらい前かな。2006年とか7年とかだったと思います。何でもいいからとりあえずテレビに出ることが大事だと思って出演してみたら、「見たよ」って言ってくれる人がたくさんいて。それがすごいうれしくて、空耳への出演が僕の支えになっていったんですよね。