裏道を辿って駅を目指す
海沿いを少し歩いたあとは、また木更津駅に戻る。同じ富士見通りをまた歩いても芸がないので、少し裏道を辿ることにした。ところどころに古い旅館や銭湯、それにくっつくようにスナックが軒を連ねるスナック長屋があったりという一角がある。
富士見通り北側の仲片町と呼ばれる一帯には、いかにも古めかしい建物が残っている。が、多くは空き地になっていて、比較的新しいであろうマンションの姿もところどころに見えるという、そういう町並みだ。
富士見通りの南側にも足を向けてみる。すると、こちらにもスナックやクラブの類いがぎゅっと一か所にまとまってひしめくゾーンがあった。どうやら、昔ながらの木更津の歓楽街なのだろう。
そしてその歓楽街の仲には、「木更津会館」というこれまた古い“見番”と呼ばれる建物が今も残っている。見番とは、芸者の取り次ぎや差配、稽古場の役割を果たす場所で、いわば歓楽街、花街の中核的な存在であった。つまり、木更津にはかつて花街があったのだ。
交通を支えた“港町”としての「木更津」
もともと木更津は、江戸時代以来の江戸湾交通の要衝たる港町だった。江戸時代のはじめに幕府の直轄地となって手厚く保護され、上総・安房(つまり房総半島)方面の物資の輸送を独占的に担ったという。というのも、大坂冬の陣で木更津の船頭たちが徳川方に属して大いに貢献、それが認められたためだという。
以後、江戸湾を往来する船の拠点基地として木更津は賑わった。花街が形成されたのは、そうした港町としての存在があったからだろう。木更津駅の西側から港にかけての市街地は、近代どころかまだ鉄道のなかった江戸時代以来の木更津の市街地。船乗りたちが立ち寄る町に、花街が形成されるのもとうぜんのことだ。
明治に入ると一時期は木更津県が設置されて房総半島の行政の中心になったこともあった。しかし、木更津県は2年ほどで消滅して千葉県に組み込まれ、遠浅の港は大型船の入港ができないことなどもあって徐々に衰退してしまう。
かろうじて物資輸送の拠点としての機能は維持していたようだが、1912年に木更津駅が開業すると、完全に旧来からの港町・木更津は終わったといっていい。このとき、房総半島の玄関口としての木更津の役目はいったん終わりを告げたのだ。