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“港町”じゃなくなった「木更津」にやってきたのは…
その流れを食い止めたのが、1936年に設置された海軍航空隊だ。海軍がやってくればそれにともなって兵隊さんもくれば、彼らの暮らしを支えるための産業も生まれる。さらに1941年には海軍工廠も設置され、そこで働く人々の暮らす町として木更津は大いに発展することになった。
さらに戦後になると、海岸線南側、君津にかけての埋立地に新日本製鐵(現在の日本製鉄)などの工場が進出。京浜工業地帯の一角として、工業都市・木更津として復権を遂げるのだ。
さらに内陸にも住宅地が造成されるようになり、高度経済成長期には人口が急増。さらに東京湾アクアラインの着工が決まると、利便性の向上が望めるとなって木更津駅周辺の開発が飛躍的に進んだ。そうして、いまの木更津駅周辺の市街地と、その周縁部の住宅地が形作られてきたのだ。
ところが、アクアラインの工事は進む一方で、バブルは崩壊。木更津の地価はみるみる下落し、中心市街地の空洞化を招いてしまう。
アクアライン開業後も、その効果は木更津にとってプラスというよりはむしろマイナスだったようだ。ストロー効果もあって人口流出が見られ、駅前のそごうをはじめとする中心市街地の大型商業施設は姿を消していった。
木更津駅近くの港からは東京湾を跨ぐフェリーが就航していたが、それもアクアラインでなくなった。いまの木更津駅前の、いかにも寂れた雰囲気は、そうした時代の名残がそのままにとどまっている、いわばバブルとバブル崩壊の遺産なのである。