住まいの近くに必ずある、中・近世の城郭跡。現地を訪ねてどのような城だったかを読み解けば、城がわかるだけでなく、その城を築いた武将も見えてくる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康の人となりも城からわかることは多い。
ここでは、「城歩き」をしながら城の歴史や武将の思いを読み解いた城郭考古学者・千田嘉博氏の著書『歴史を読み解く城歩き』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。古宮城(愛知県新城市)と高天神城(静岡県掛川市)の歴史を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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長篠合戦はじまる【古宮城】
1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利した武田信玄は、三河国に向かって進軍し、野田城(愛知県新城市)を攻めた。武田軍は駿河国で編成した水軍が海から三河を攻撃して、陸と海から家康を追い詰めた。
家康は吉田城(愛知県豊橋市)に入って織田信長に援軍を要請したが、信長は畿内の戦いで身動きがとれなかった。1573(元亀4)年になると三河や遠江の一向一揆も信玄に呼応しはじめた。またもや「どうする家康」の危機だった。
ところが野田城を落とし圧倒的に有利な状況にあった武田軍は、2月17日に撤退を開始した。信玄は病を得ており、4月12日に長野県阿智村の駒場に没した。家康は信玄の死で大きな危機を脱した。
家康は奥平氏の一部を味方に
信玄の跡を継いだ武田勝頼は、遠江国と三河国の領地を維持するために境目の城に武将を派遣した。古宮城(愛知県新城市)は武田氏の三河進攻と支配の拠点だった。
勝頼への代替わりの隙を狙って家康は反撃を開始した。1573(元亀4)年7月頃から長篠城(愛知県新城市)を包囲した。勝頼は真田昌幸を派遣して救援したが、同年9月に家康が長篠城を奪還した。
さらに家康は武田に従っていた地侍の連合「山家三方衆」を切り崩し、奥平氏の一部を味方にした。離反に気がついた武田軍は古宮城から出撃して戦いになり、勝頼は人質にしていた奥平氏の男児を処刑した。