住まいの近くに必ずある、中・近世の城郭跡。現地を訪ねてどのような城だったかを読み解けば、城がわかるだけでなく、その城を築いた武将も見えてくる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康の人となりも城からわかることは多い。
ここでは、「城歩き」をしながら城の歴史や武将の思いを読み解いた城郭考古学者・千田嘉博氏の著書『歴史を読み解く城歩き』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。小牧山城(愛知県小牧市)と岡崎城(愛知県岡崎市)の歴史を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
◆◆◆
秀吉を大破した謎の作戦【小牧山城】
1582 (天正10)年6月に本能寺の変が起きて織田信長が自刃すると、誰が織田家を継ぐのかが大問題になった。柴田勝家や羽柴秀吉など織田家の重臣が清須城(愛知県清須市)に集まった清須会議の結果、信長の長男信忠の子で幼児だった三法師が織田家の後継者に決まった。
ところが10月になると、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興などが清須会議の決定をくつがえし、信長の次男織田信雄を実質的な織田家の家督として擁立した。しかし信雄が本当の天下人としてふるまいはじめると、信雄はたちまち秀吉と対立して1584 (天正12)年3月に、小牧・長久手の戦いがはじまった。
小牧山城の変化
この戦いで徳川家康は、信雄を助けて伊勢方面で戦うつもりだった。ところが尾張北端の犬山城が陥落し、北から羽柴軍が進攻してきた。そこで家康は作戦を変更し、小牧山(愛知県小牧市)に陣城を構築した。
小牧山には織田信長が1563 (永禄6)年から築いた小牧山城跡があった。そこで家康は信長の城を利用しつつ強固な要塞を築いた。信長時代の小牧山城は中心部に石垣を築いていたが、敵前築城の家康に石垣を築く時間はなく、山の中腹と山麓に城を囲い込む二重の横堀を掘った。そのため小牧山城は、石垣の城から土づくりの城へ変化するという特異な変遷を遂げた。