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家康が岡崎城に施した捨て身の設計
家康は、関白軍が現在の愛知県東部にあたる三河地方から攻め込むと予測した。そして、三河の城の大改修を一斉に進めて軍事要塞地帯にしていった。三河の軍事要塞作戦の実像をよく示しているのが岡崎城(愛知県岡崎市)である。岡崎城は本丸の前面に反撃力を高めた出入り口、馬出しを3つ並列展開し、馬出しが相互に連携して強い抵抗ができるようにしていた。
さらに馬出しのひとつを天守と橋でつないで直結した。これは天守を防御正面に向けた最大の反撃拠点にするという驚異的な仕立てだった。天守が落ちれば落城を意味した。だから岡崎城は最後の砦を前線に投入するような捨て身の設計といえる。三河を絶対に渡さないと決意した家康の凄みが、岡崎城の姿にはあふれて恐ろしいほどである。
天正大地震が中部地方を襲う
さらに三河の城を歩くと、いまは静かな村落に残る戦国の城跡が、1585 (天正13)年頃の技巧的な設計になっているのに気がつく。拠点の城だけでなく中堅的な城まで改修して、家康は地域ぐるみで関白軍を迎え撃とうとした。もしこの戦いが現実になっていたら、地域は甚大な被害を受けたに違いない。
いよいよ関白軍が三河に攻め入る態勢が整い、激突は不可避と思われた天正13年11月(1586年1月)に突然、天正大地震が中部地方を襲った。この地震は家康領にも秀吉領にも大きな被害を与え、これを契機に両者に講和の気運が高まった。1586 (天正14)年10月、大坂城を訪ねた家康は、秀吉に臣従の礼をとって忠節を尽くすと誓った。