「トンネル作戦」が長久手合戦勝利の鍵に
秀吉は強固な小牧山城に籠もる家康を誘い出そうと、家康領に攻め入る「三河中入り」作戦を実行した。秀吉は三河攻めを家康側にわざとリークした上で、家康が小牧山城から出るのを発見してたたくため徹底した監視網を整えた。
しかし家康は羽柴軍の監視をすり抜けて城から出て、長久手の戦いで秀吉に大勝した。このときどうやって家康が極秘裏に小牧山城から出たかは長い間、大きな謎だった。
ところが小牧山城の発掘でその謎が解けたと考えている。ここでは千田説を紹介したい。なんと家康は山麓にあった城の出入り口の中を深く掘り下げ、城のまわりの空堀「横堀」の底につながるように改造していたのである。城からそのまま外に出れば秀吉に出陣がすぐばれてしまう。
そこで家康は軍勢を城の山麓にめぐらした堀底に入れて進め、羽柴軍の死角になった南側にまわってから城を出たのである。この「トンネル作戦」が、家康の長久手合戦勝利の鍵だった。
秀吉の三河攻めに備えた軍事要塞地帯【岡崎城】
1584 (天正12)年の小牧・長久手の戦いで徳川家康は、圧倒的な羽柴秀吉の軍に対して、小牧山城などの城を活用して互角に戦った。特に長久手の戦いでは秀吉に大打撃を与えた。その後、家康と同盟した織田信雄が秀吉との講和を受け入れたことで、家康も秀吉も撤兵して合戦は終わった。ここまでは家康の戦術の鮮やかさが際だつ展開であった。
ところが秀吉は、政治的圧力によって巻き返しを図った。家康の脅威になったのは1585 (天正13)年7月に秀吉が関白に就任したことで、秀吉は家康を天下人に反抗する立場に追いやって、家康を討つ正当性を手中にした。さらに秀吉は、家康に対して軍事的圧力もかけつづけた。家康領への攻撃準備を進め、大垣城(岐阜県大垣市)に家康攻めの軍事物資を集結しつつあった。この局面では秀吉の政治・外交の巧みさが光る。