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 これで城に平和が訪れるように思えたが、1574(天正2)年5月に信玄の跡を継いだ勝頼が高天神城に攻め寄せた。城主の氏助は勝頼と和平交渉をして時間を稼ぎつつ、家康に援軍を要請した。城は5月末に本丸と周辺の曲輪を残すだけになっても戦ったが、6月17日に降伏開城して、勝頼の軍門に降った。勝頼の指揮はみごとで、信長が上杉謙信に宛てた手紙で、勝頼は信玄の掟を守り表裏を心得た武将と評したほどだった。

高天神城に残る長大な横堀。武田軍が徳川軍の攻撃を防いだ(千田嘉博撮影)

城兵は家康に降伏を申し出たが…

 ところが1575(天正3)年の長篠の戦いで武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、再び家康が高天神城に迫った。勝頼は長篠の敗戦からわずか3カ月後という短期間に1万3000人もの大軍を率いて救援し、高天神城に兵糧を入れた。

 その後1579(天正7)年12月に家康は、高天神城の周囲に付城網を整備して、本格的な包囲戦を開始した。家康の包囲によって兵糧や兵員の補給を断たれた高天神城は、驚くことに足かけ3年もの間、攻撃に耐えて籠城をつづけた。しかし勝頼の援軍はついになく、1581(天正9)年正月に城兵は家康に降伏を申し出た。

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 家康は信長に相談した上で、城兵の降伏を許さなかった。すべては勝頼の面目を失わせるためだった。進退きわまった城兵は3月22日夜に徳川軍に突撃し、680人余りが戦死した。勝頼は武田を信じて前線で戦う家臣を見殺しにしたことで、権威と求心力を失った。高天神落城は武田家滅亡への転機だった。