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古宮城を守備した武田軍の番衆は合戦後に降伏して退去
1575(天正3)年3月には勝頼が東三河に攻勢をかけ、古宮城を拠点に現在の愛知県豊田市から豊橋市まで軍を進め、反転して5月1日から長篠城を包囲した。家康から援軍要請を受けた信長は、今度は大量の鉄砲を準備して出陣し、家康とともに長篠城の西の設楽原に5月17日に陣を敷いた。
武田軍も設楽原に進んで布陣し、5月21日に史上名高い長篠合戦が起きた。この戦いに敗れた勝頼は多くの家臣を失って大打撃を受けた。
古宮城を守備した武田軍の番衆は合戦後に降伏して退去した。三河の武田軍が一掃されたので、その後、古宮城が再整備されることはなかった。そのため古宮城は馬出しを備えた武田流城づくりの最高事例のひとつになっている。
なぜ愛知県と新城市はこれほどの戦国の名城を国史跡に指定する手続きを進めないのか、行政の無策が惜しまれる。
徹底的な籠城攻め、武田氏凋落のきっかけに【高天神城】
静岡県掛川市にある高天神城は、徳川家康と武田信玄・勝頼が激闘を重ねた戦国の山城である。城からは遠州灘を望み、河川で海と結ばれていた。今川義元が1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで討死すると、北からは武田氏が、西からは徳川家康が遠江の今川領に攻め込んだ。高天神城主の小笠原長忠は家康に従った。
しかし1572(元亀3)年10月に武田信玄は徳川家康・織田信長と断交して出陣。武田軍は徳川領の東三河と遠江に襲いかかり、信玄率いる本隊は高天神城を攻めた。圧倒的な武田軍を前に、このとき城主の小笠原氏助は降伏して開城した。高天神城は武田の城になった。ところが武田軍が西へ移動し、さらに翌年4月に信玄が病死すると氏助は徳川に帰参して、家康は高天神城を取り戻した。