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2年間甲子園に出場できず、急遽解任を言い渡される

 いざコーチになったものの、それまでの間、指導者としてのノウハウがまったくなかったので、選手たちに素の自分をさらけ出して全力で向き合っていくことしかできませんでした。一方でとにかく結果を残さなければならないと、毎日必死になってグラウンドで汗を流していたのです。

引退を表明した日大三の小倉全由監督 ©上野裕二

 その甲斐あってか、コーチになって3年目を迎えた79年夏、17年ぶり6度目の甲子園の切符をつかみ取ったのです。残念ながら甲子園では1回戦で天理に4対5で惜敗したのですが、「初めての夏の全国制覇も夢じゃない」と三高OBたちの期待も盛り上がっていきました。

 けれどもその後の2年間、甲子園には縁がなく、81年夏の西東京予選の4回戦で法政一に完封負けを喫した直後、野球部のOBたちの話し合いで私と小枝さんが急遽、解任を言い渡されたのです。その理由は「2年間、甲子園に出場できなかったから」。

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 あまりにも理不尽すぎる決定に、私は憤りましたが、結論が覆るわけではないことは重々承知でしたので、大学時代、教職を取得したことを生かすべく、実家のある千葉に帰って教員の採用試験を受けて、「公立高校の監督をしよう」と考えました。

関東一で監督として就任 帝京に快勝し、初の甲子園出場を果たす

 そんなある日、三高のあるOBから「関東一で野球部の指導者を探している」という話を耳にしました。当時の東東京は荒木大輔擁する早稲田実業を筆頭に、80年春のセンバツで準優勝した帝京、さらには二松学舎大付属などを中心にしのぎを削っていました。関東一は甲子園出場こそないものの、野球部を強化していきたいという話を聞いていたのです。私で力になるのならと思い、その話を引き受けたのですが、当時の関東一は負けん気の強い選手が大勢いました。私も若かったこともあり、彼らと全力で向き合い、練習に励んでいたのです。

引退を表明した日大三の小倉全由監督 ©上野裕二

 荒木が早実を卒業してからは、「打倒帝京」に燃えていました。選手のレベルを比較したとき、明らかに帝京のほうが上でしたが、「甲子園出場を果たすには、帝京の壁を超えるしかない」、そう思って必死でした。

 初めて帝京と対戦したのは、83年夏の東東京予選での決勝戦。2対3で負けました。その後、85年春の東京大会でも帝京に負け、迎えたその年の夏の東東京予選の決勝で3度帝京とぶつかりました。この前夜、帝京の前田三夫監督(当時。現帝京名誉監督)が、「関東一さんには申し訳ないけど、甲子園はウチが行きますから」とまるで勝利宣言をしているかのような言葉を聞いて、私だけでなく選手全員が発奮。翌日の決勝戦は終盤に大量点を奪って帝京に快勝し、初の甲子園出場を果たしたのです。

 いざ聖地に足を踏み入れると、選手たちは初出場の気負いを微塵も感じることなく、ベスト8まで勝ち進む快進撃ぶりを見せました。マスコミからはJR総武線の新小岩駅に学校があることから、「下町の暴れん坊軍団」と呼ばれ、地元の商店街も大いに盛り上がっていました。その2年後の87年春のセンバツでも準優勝。監督として順調にキャリアを積み重ねていきました。