「誰でも会社に行きたくないときがあると思うんです。僕は広告制作会社のサラリーマン時代に京浜急行で通勤していましたが、会社とは逆方向の電車に乗れば逗子や三浦海岸という何とも心地良さげな場所でした。結局、行けなかったですけど」
荻原浩さんの新刊『ワンダーランド急行』は、人生に漠然と不安を抱える四十男の物語だ。
いつもの憂鬱な月曜日の朝。イベント会社に勤める野崎は、仕事も、妻・美冬との関係も何かしっくりこないし、疲れていた。ろくでもない毎日が少し変わる気がして、ほんの出来心で通勤電車とは反対側の下り電車に乗ってしまう。サボるのではない、脱出だ。
小さな終着駅に着き、古びた商店でパンとビールを買って、目の前の山に登る。山中の美しい草原で寝てしまい、目覚めると夕暮れ。慌てて下山した野崎を待っていたのは、誰もマスクをしていない世界だった……。
「執筆準備をしていた頃にコロナ禍が始まりました。世界的パンデミックなのに、ガスマスクや防護服ではなく、普通のマスク一枚というのが不思議で。最初の頃は感染者ばかりか医療関係者を遠ざけようとしたり、他人の言動を監視して揚げ足をとって叩く自粛警察まで現れて。夢の中のような光景で、この現実感のなさは何だろうと。これを小説にしようと思ったんです」
コロナのない異世界で、野崎は自分がおかしくなったのではないかと疑う。だが、音楽に詳しいはずの妻が「上を向いて歩こう」を知らないし、会社の場所が違う。飲食店には「ペロピーノ」という謎のメニューがある。部長の覚えもめでたいし、何もかもがおかしい。
「異世界へ行けば勇者になれるほど世の中は甘くない。相変わらずサラリーマンなのに、ただ日常がちょっと違っていて、じわじわと違和感が増していくんです」
野崎が感じたり考えたりすることは、荻原さんの実体験ももとになっている。
「広告の仕事をしていた時、やたらと横文字を使いたがる同僚がいました。周囲がその言葉に頷いていたりすると、うわ、俺だけわからない、と真っ青になって。僕の願望でもありますが、元の世界で成功していたものを、今度は自分がやってみたい。野崎は新規企画“ゆるキャラグランプリ”を提案します(笑)。みみっちくてセコい異世界にしたかったんです」
やがて野崎は衝撃の事実を知る。狂牛病の蔓延によって、牛が絶滅し、牛肉がなくなっていたのだ。
「牛肉が食べられなくなれば、欧米では争いが起きるだろうし、世界を分断するかもしれない。肉好きの僕からしても捨て置けない」
牛を神聖視する宗教団体が、政治をも左右するほど力を持ち、スカイツリーがあったはずの場所には、牛の頭を持つ異形の巨大観音像「牛頭天王(ごずてんのう)」が屹立(きつりつ)する。自分は異世界にいると観念した野崎は、元の世界に戻るため、再び下り電車に乗るが……。
物語は、宗教、食と環境、同調圧力に支配された社会を期せずして描くことになった。様々な世界を巡る主人公とともに、「ありえたかもしれない別の人生」を思わずにはいられない。
「量子力学によれば、世界はいくつも存在し、互いに干渉せず、分裂を繰り返しているそうです。僕たちの人生は、小さな選択の連続で無数に分岐しているのかもしれません。たとえば、別の人と結婚していたら。帰宅したら、昔の彼女がいる世界もあるかもしれない。みなさんは、嬉しいですか、それとも怖いですか」
おぎわらひろし/1956年、埼玉県生まれ。97年『オロロ畑でつかまえて』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2005年『明日の記憶』で山本周五郎賞、14年『二千七百の夏と冬』で山田風太郎賞、16年『海の見える理髪店』で直木賞を受賞。近著に『楽園の真下』『それでも空は青い』『極小農園日記』など。