本作は20世紀初頭のウィーンで活躍した画家エゴン・シーレ(1890―1918)によるものです。「悲しみの女」というタイトルは彼がつけたものではありませんが、この絵の背景を知ると、ぴったりだと思うでしょう。それはこの絵のモデルが、彼を愛し、ミューズとして身を捧げ続けた末に捨てられ、若くして亡くなった愛人ワリーだと推測されるからです。
1911年の2人の出会いの経緯は不明ですが、ワリーは労働者階級出身でシーレの4歳下の16歳でした。田舎で同棲を始めますが、教会にも通わず、周囲から白い目で見られるようになり、その年のうちに逃げるようにウィーン近郊に引っ越します。
翌年、シーレは未成年誘拐容疑の誤解を受けて捕まり1ケ月近くも拘置されます。その間もワリーは彼を献身的に支えました。本作が描かれたのはこの「事件」の前と思われますが、まるで予兆したかのようです。
ほぼ黒の背景に骸骨を思わせるやせこけた青白い顔。その容貌はワリーを描いた水彩画からの転用と考えられます。
シーレはもがくようなジグザグの線描・荒々しい筆致・苦しみに歪んだようなデフォルメした形状で人間の内面を象徴的に描き出すことから、表現主義と分類されます。そんな彼の画風は生と死を想起させるといわれますが、それは秋を思わせる枯れ色を主体にしつつ、はっとするような原色を要所に用いるからかもしれません。死を予感させながらも、生と性のエネルギーが滲出するかのようです。
この絵は具象的に陰影を施した顔部分とフラットで鮮やかな色面から構成され、その対比が女性の顔を強調します。不思議なのは、赤毛のはずのワリーの髪が黒いこと。よく見ると、背後に一輪の花をもった男性の横顔が。彼の頭が赤毛色をしていて、その上がった眉とすぼめた口からシーレの自画像だと分かります。
シーレは見たままを描く画家ではないので、造形的な必要性からそうしたのかもしれません。あるいは互いの特徴の一部を入れ替えることで、2人の一心同体ぶりを象徴させたのかもしれません。また、互いのサイズや表情の違いに画家の彼女に対する葛藤を表現したのでしょうか。大きく見開いたイコン画のような目からは、ワリーのシーレに対するひたむきな想いが伝わってくるようです。
彼らの結びつきの深さと複雑さは、ワリーの肖像画を「ほおずきの実のある自画像」の対と考えていたこと、「枢機卿と尼僧」「死と乙女」などからもうかがえます。
シーレは1915年にブルジョワ育ちの女性と結婚を決めますが、1年に一度はワリーと2人きりで過ごしたいと駄々をこねます。ワリーはそれを突っぱねて身を引き、従軍看護婦に。そして17年には猩紅熱で亡くなるのでした。
結婚後のシーレの画風は保守的になります。しかし、社会的に認められ始めた矢先の18年末、当時流行っていたスペイン風邪で妊娠中の妻を失い、自身も3日後に同じ病で、28歳で亡くなるのでした。
INFORMATION
「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展」
東京都美術館にて4月9日まで
https://www.egonschiele2023.jp/
●展覧会の開催予定等は変更になる場合があります。お出掛け前にHPなどでご確認ください。