「生意気なガキで、どっか世の中を斜に見てたというのは常にあったんですね。だから少なくとも学歴を取るよりは落語歴を取ったほうがいいだろうって判断ははっきりしたみたいです。落語以外にぶつかるものがなかったような気がする。雰囲気、やがては内容、それから自分の中にあるものを表現させてくれる手段を持つ技芸だったんでしょうね、 落語は」
「寄席の様式美っていうんですか。提灯とか名札とかビラ字(寄席文字)だとか噺家の紋付袴のスタイルとかっていうのが好きで入っちゃったんです。まして人間の業を肯定する。 『偉くなりました』とか何とかいうのがない。そういう部分に惹かれたんでしょうね」
落語にほれ込み、やがて高校を中退、 16歳で五代目柳家小さんに入門する。柳家小よしという名前を与えられて修業に励み、1954年に二つ目に昇進。柳家小ゑんとなる。寄席にとどまらず、洋服姿でキャバレーなどでスタンダップコメディーを披露すると、すぐに天才ぶりを発揮してたちまち人気者に。その名は知れ渡り、テレビ、ラジオへと引っ張りだこになった。
27歳で立川談志を襲名、真打ち昇進を果たす。しかし、この頃から「このままではいずれ落語はダメになる」と危機感を抱いていた。談志は、古典落語を現代に通用するものに変えていかなければならないと決意。古典落語の人間像や設定、最後の落ちまで、現代人が共感できるものに変えていく。
「最初はね、『伝統を現代に』っていうスローガンを持ってましたから。今はもう平気で現代語も使うしね。たとえばね、 『わらじを持ってほんの二、三町行ったかと思うと。二、三町というのがわからないんだね。20センチぐらいだよね(注:一町は約109m)』 。そういうこと言ったりね。『ペンペン草が生えちゃって。ペンペン草ったってわかんないだろう。大きくなると三味線になる木なんだよな』。こういう風なギャグにしてね。何メートルと(正しい数字を)言わない。その代わりに20センチなんだよね。そうすると向こうは噓に決まってるってのはわかるから、あとで調べたり考えたりするんだろうし、さっきのペンペン草というから三味線になる木だよ、客がワーッと笑うよね。あまりにも飛躍した考え方で、まぁこれが一つのイリュージョンみたいなもんだけどね」
談志が落語を通して描きたかったこと
談志の代表的なネタの一つ「居残り佐平次」では、肺病やみの佐平次という設定を変え、廓で散財して主人をゆする男をバイタリティー溢れる人物として演じてみせた。