落語界のみならず芸能界に圧倒的な存在感を放ったの立川談志。NHKに残る貴重な映像資料をまとめた『道を開く言葉 昭和・平静を生き抜いた22人』より一部抜粋し、稀代の噺家の生涯を振り返る。

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美談は嫌で嫌でしょうがない。美談は嘘くさい

 落語界の風雲児と呼ばれた立川談志。破天荒な行動と毒舌で常に注目を集めつつ、迫力とスピード感あふれる語り口の落語で観客を魅了し、江戸時代からの古典落語に革命を起こした。熱狂的なファンを多く生んだ落語界のカリスマである。立川談志は1936(昭和 11)年、東京に生まれた。

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©文藝春秋

 その生き方に決定的な影響を与えたのは、9歳のときに体験した日本の敗戦だった。著書『「現代落語論」其二 あなたも落語家になれる』には次のように記されている。

「いい戦争なのだと思っていたら、悪い戦争だった、ということになった。 この一事のために、私はもはや何事も素直に見ない習慣を身につけてしまった」

 独自の視点で世の中を斜めに斬り、それでいて本質を突く。毒舌と含羞が同居している。談志の思考の萌芽は少年時代からすでに表れていた。

「小学生から皮肉なガキだったね。だいたい大人を信用していなかった、ガキの頃からね。まして戦争に負けて価値がガラッと変わっちゃったから。教育に対して根本から疑問を持つようになって、授業中に落語全集か何か読んでたんだよね。したら先生が来て、俺の肩に手をかけてね。『何しているの、先生』『君に勇気を与えてる』。何を言いやがんで噓つきめ。キザな野郎だな、怒鳴りゃいいじゃねえかコノヤローと思ってね。とにかく後年、遅い電車に乗ったら、その先生酔っ払ってカ~(といびきをかいていた)。やっぱ当たってたと思ったけどね。どうも大人っつうのは信用できなかったな。噓だもん。神風吹くだの八紘一宇だかなんだか知らないけど、噓ばっかりついて」 

「基本はどっかで美談は噓だよ、みたいなものが(あった)。美談が嫌で嫌でしょうがないもの。 美談は噓臭いよ。本当の美談は恥ずかしがって出てこないです」 

落語にほれ込み、高校中退。そして飛躍の時を迎える

 戦後、談志が出合ったのが落語だった。小学5年生のとき、伯父に連れられていった寄席で見た落語に夢中になり、授業中も落語に関する本を読み耽るほど。寄席に通い続け、「ずっと寄席に居たい、寄席にずっと居るためには落語家になるしかない」という思いが心を占めるようになる。