NHKに残る貴重な映像資料をまとめた『道を開く言葉 昭和・平静を生き抜いた22人』より一部抜粋し、作家で僧侶の瀬戸内寂聴の生涯を辿る。多くの人々を励まし、勇気づけた彼女の生涯で公開しているたった一つのこととは?

◆◆◆

「幼いころに見た人形回し」が文学の原点

 作家で僧侶の瀬戸内寂聴。 恋愛や歴史などをテーマに新しい女性の生き方を描き続け、99歳でその生涯を閉じるまで、400冊以上の作品を世に送り出してきた。さらに30年以にわたって法話を続け、多くの人たちの悩みや苦しみに耳を傾け、あるときは優しく、あるときは情熱的に励まし続けてきた。

ADVERTISEMENT

「みんないつかは死ぬんですから。いつかは死ぬから、今日の一日が大切なんですね明日はあるかどうかわからない。ですから今日一日を切に、一生懸命に生きましょう」

 波乱万丈の生涯を送った瀬戸内寂聴は、1922(大正11)年、阿波おどりで有名な徳島市で、仏具店を営む両親のもとに生まれる。幼い頃から子ども向けの小説や絵物語に親しんで小説の面白さを味わっていた。はっきりと文学に憧れるようになったきっかけは、幼い頃に街角で見ていた人形浄瑠璃だった。

©文藝春秋

「私の文学の源泉と言えば人形回しなんです」

 江戸時代に阿波藩主・蜂須賀公の庇護・奨励を受けたことから、徳島では人形浄瑠璃が盛んに上演されてきた。人形浄瑠璃は、恋愛や心中など人間の心理や機微を描く演目が多いことで知られている。

「人生というものには、楽しいことだけじゃなくて、苦しいことがあるんだなとか、哀しいことがあるんだなとか、それから人を好きになる、男女の間に引き合う愛があるんだなって。そういうことを覚えたのは人形からです」

終戦直後、目の当たりにした焼け野原の故郷そして母の死…

 小学生の頃から早くも世界文学全集に親しみ、トルストイの『復活』に感動するませた子どもでもあった。 『復活』とは、かつて弄んで捨てた下女が娼婦となり、殺人にかかわったことを知った若き貴族が、彼女の恩赦を求めて奔走するという物語である。世界文学全集に熱中するうちに、小説家になりたいという夢を抱くようになった。

 徳島県立高等女学校(現・城東高等学校)を首席で卒業し、東京女子大学に進学する才媛だったが、在学中に太平洋戦争が勃発。女性は良き妻、良き母として家庭を守るのが務めとされた時代であり、瀬戸内も21歳で中国古代音楽史の研究者と見合い結婚。夫の留学に伴って中国に渡り、翌年には女の子を出産している。終戦後、帰国した瀬戸内が目の当たりにしたのは、焼け野原となった故郷だった。母親も空襲で死亡している。このとき、瀬戸内の価値観は一変したという。