流行作家になっても解消されない“ストレス”
小説を書きたいと強く願った瀬戸内は、文学仲間とつくった同人誌、通称「無名誌」で、明治の女流作家・田村俊子の生涯について書きはじめる。田村は作家としての全盛期に地位も名誉も捨て、恋人を追いかけてカナダに渡り、最後は中国・上海で亡くなった。その情熱的な生き方は世間から誤解されていたが、だからこそ瀬戸内は自分の姿と重ねて筆をふるった。そして、自身の恋愛体験を記した私小説『夏の終り』を執筆。酷評も覚悟したが、高い評価を受けて女流文学賞を獲得する。
40歳のときのことだった。
その後、恋愛小説、伝記小説などジャンルを超えたさまざまな作品で、時代に抗い、愛を求めて自由に生きる女性たちの姿を描く。芸術家の岡本太郎の母で、歌人であり小説家の岡本かの子の生き方を描いた『かの子撩乱』、女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてうや伊藤野枝らの姿を描いた『美は乱調にあり』などを次々と発表する。
「女の解放を考えて、我々働く女たちの道を切りひらいてくれた人たち。つまり日本の近代の明治、大正に成長して青春を生きて、そしてまだ非常に世の中の因習的な壁の厚い時代に、自分の裸足の足に血を流して、爪から血を流してその道を切りひらいてくれた、そういう女性たちに憧れますね」
瀬戸内は新聞やテレビに名が出ない日はないほどの流行作家になっていた。しかし、常につきまとうのは言いしれぬ虚しさだった。書けば書くほどお金は入ってくる。ストレス解消に贅沢をしても虚しさは募るばかりだった。
「51歳のときに私は嫌な言葉ですけどいわゆる流行作家になってたんです。それでお仕事はもう書ききれないくらいたくさんあったんです。そのとき、何度も書いてて慣れが出ますでしょう。コツを覚えますわね。だからこういうふうに書けば、一つの小説ができると。コツを覚えていくらでも書ける。その自分が嫌だったんです」
51歳で出家。決意のワケは?
「自分の書いた小説が、世界的名作のレベルに達しないと嫌だと思ってたんです。そりゃ自分の書いたものを見たらわかります。そんな何十年も書いてたら。ああ、この程度かと思って。子どもを捨てたしね」
「悪くもない夫を裏切ったり、そういうことをしてまで小説を書いた。それで手に入ったものが、なんだこんなものかっていう、非常に虚しかったです」