「それまでは忠君愛国、良妻賢母でしたけれども、これからはもう人の言うことなんて聞いてられないと思って。戦争を境に、自分で考えたことでやっていかなければ、と変わりましたね。女は抑圧されていたでしょ。一旦お嫁に行ったら、絶対にそこで辛抱しなきゃいけないって教えられていました。それはひっくり返ったでしょう。それでね、ずいぶん町内であそこの家も出た、こっちも家を出た(編注:女が家を出た)割合が多かったの」
25歳、瀬戸内は生まれて初めて恋に落ちる。相手は夫の教え子だった文学青年だった。「初めて恋愛したんです、そのときに。結婚は見合いでしたからね。だから初めて恋愛して。恋愛ってのは、ちょうど、雷が落ちてくるみたいなもんでね、もう防ぎようがないんです。気がついたらもう打たれているんですね」
「家を出る名目としてね、どうして出るのかって言われたときに『男に惚れて出ます』って、みっともないからね。小説を書きたいって言っちゃったんですよ」
夫と娘を捨て列車に。聞こえてきた子供の泣き声
作家になると夫に告げて、瀬戸内は3歳の娘を残して家を出る。しかし、実際は駆け落ちだった。京都へ向かう列車の中、どこからか子どもの泣き声が聞こえてきた。そのときの心情を瀬戸内は自作の中で次のように綴っている。
「女の子の声で、赤ん坊ではなかった。夢にうなされでもしたのだろうか、泣き声は火のついたように次第に激しくなり、母親が泣き続ける子供をデッキの方へ連れ去っていった。泣き声はしばらくして止んだが、私の耳の中にはいつまでもその声が響きつづけていた。それまで私は残してきた娘をつとめて思い出すまいとして、心を他へばかり向けていた。泣き声は娘の私を呼ぶ絶叫に聞えた」(『場所』「名古屋駅」)
「私は、生涯にね、いろんなことをしてきましたけど、後悔って何もないんです。悔いはないんです。ただ、そのとき、ちっちゃな子どもを捨てて出たってね、これはもう、自分でも許しがたいです。だからそれだけは後悔ですね」
このとき、瀬戸内は父から手紙を受け取っている。夫の家に謝れ、元の家に戻れ、というものではなかった。「お前は子を捨て人でなしになった以上、もう人間らしい人情などは捨ててしまい、鬼になりきれ。どうせ鬼になるなら、せめて、大鬼になってくれ」と書かれていた。父からの手紙で、瀬戸内は自分の行動を認めてもらったと感じたという。