「やっぱり自分が作家になりたいからって言って、家を出た以上、どんなことがあっても作家にならないと申し訳ないと。自分の言った言葉に責任は取らなきゃいけない」
しかし、駆け落ちの恋はすぐに破局する。瀬戸内は京都で小さな出版社に勤めながら一人暮らしを始めた。夫も娘も捨てた彼女に残されたのは、作家になるしかないという思いだった。三谷晴美のペンネームで少女向けの恋愛小説を執筆し、雑誌に投稿したのをきっかけに上京する。
「子宮作家」というレッテルを貼られた小説で5年間、文壇追放に
東京に出るとき、父に手紙で借金を申し込んだところ、脳溢血で倒れていた父は娘のために無理をして、そのまま帰らぬ人となった。瀬戸内は娘に次いで父まで失ってしまった。
「私がとにかく作家にならなければ、もうこれはマイナスのまんまだと思います。しかし私が、もし自分の志を貫いて、まあとにかく作家になれれば、彼らも許してくれる、というふうに思ってました」
東京で同人誌に参加した瀬戸内は、芥川賞候補で戦後前衛文学の旗手と呼ばれていた小田仁二郎と出会う。小田から小説とは何かを貪欲に吸収した瀬戸内は、35歳のときに新潮社同人雑誌賞を受賞し、文壇デビューを果たす。
受賞直後に執筆したのが小説『花芯』。男女の関係から女性の内面へと迫った作品だった。しかし、この小説が瀬戸内の人生を大きく狂わせていく。
「私はもう一生懸命書いて、まあいいんじゃないかと思った。ところがそれがエロだって言われましたね。子宮という言葉がいくつあるか数え上げられて、子宮作家ってレッテルを貼られたんです」
文芸雑誌から瀬戸内への原稿依頼は一切途絶え、5年間もの長きにわたって文壇から追放されることになる。瀬戸内はどのような気持ちで苦しい時期を乗り越えたのか。
「やっぱり自分を信じなければ。人が自分を認めないで悪口を言ってるとき、自分もダメだと思ったら、それはもうダメですよ。可哀相じゃないですか。あの人たちは自分の悪口を言っていて、自分をちっとも理解してくれていない。しかし、自分は自分を信じている、自分は大丈夫だっていう自信を持たないと、つまらない批評でやっつけられてそれまでになります。誤解されていると本当に悔しいけれども、誤解する人間が悪い、自分はちゃんとしてるんだっていう誇りを失っちゃダメですね」