人が人を食べる。食人は人類にとって最大のタブーの一つと言ってもいい。趣味嗜好としての食人はその背徳感ゆえに映画やドラマのテーマになりやすい。『悪魔のいけにえ』(74年)や『ハンニバル』(01年)、Netflixのドラマ『ダーマー』(22年)などがそうだ。
一方、食葬文化に基づく食人は、われわれのそばにあってもおかしくない身近なタブーとも言える。それを(フィクションを織り交ぜつつも)取り扱ったところに『ガンニバル』の新しさがある。
凶暴な住人よりもよりタチが悪いのは…もう一つのテーマ「閉鎖的な村社会」
『ガンニバル』のもう一つの大きなモチーフが、閉鎖的な村社会だ。供花村の村人たちは、最初は穏やかに大悟たちとの関係を築こうとするが、徐々に本性を表していく。
地域行事への参加は必須、遅刻すると理由を詳細に説明しなければならない。大悟の妻・有希には酒席での男どもへの酌を要求する(原作にはセクハラ行為もあった)。
よそ者である大悟たちの行動は常に村人たちに監視される。なかでも村人のリーダー・山口さぶ(中村)は双眼鏡や盗聴器まで使っており、何かというと声をかけに来る。大悟が反抗しようとすると、さぶたちは烈火のごとく怒り、よからぬ噂に尾ひれがついて村中をかけめぐる……。
フィクションとはいえ、日本の排他的な村社会の閉鎖性を知っている者からしてみれば、いずれもどこかで見た風景である。凶暴な後藤家の面々ともかかわりあいたくないが、よりタチが悪いのはニコニコして近づいてくる村人たちではないか。冒頭に挙げた池田町の騒動を見て『ガンニバル』を思い出した人も同じだろう。
独自のルールや因習を持つ共同体に入り込んだよそ者が酷い仕打ちを受ける、いわば「村八分スリラー」は日本だけではなく世界中にあり、枚挙に暇がない。
カルト映画として知られる『ウィッカーマン』(73年)は孤島にやってきた警官が原始的宗教を信じる人々に迫害される作品。話題作『ミッドサマー』(19年)はアメリカの大学生グループがスウェーデンの古代宗教を信じる村人たちに追い詰められていく。『わらの犬』(71年)は田舎に引っ越した学者一家が地元民からの陰惨な嫌がらせを受け続けて暴力の渦に巻き込まれていく。『ガンニバル』もその系譜にあたる作品だ。