その話を聞いたあと、浅野自身に、なぜそうしたのかを聞くと、彼は「当たり前のことですよ」と前置きをして、次のように理由を語った。
「サッカーはチームスポーツなので、個々がもっている実力がすべてではないんです。たとえば紅白戦で僕のチームより相手チームのほうに県選抜や市選抜クラスのうまい選手がいくのですが、実力差があっても、みんながミスを恐れずに楽しくプレーをすれば、チームが盛り上がってくるんです。自分も楽しくなって、よりいいプレーが引き出される。僕らのチームからはマイナスな言葉が出てこないし、逆に相手はイライラしてきて、1つのミスで誰かが怒ったり、自分たちから雰囲気が悪くなったりしていく。すると最終的に僕らが勝つんです。チームとして戦うことが大事で、それが自分の力を発揮させるんです」
恩師の一言が強豪校への進学を後押しした
周りを巻き込みながらうまくなっていく浅野を中心に、メキメキと力をつけてきたチームは、彼が中学2年生の夏には、三重県代表として東海大会に出場した。
初戦で静岡代表の常葉学園橘中学と対戦し、1-2で敗れ、東海地区代表として全国中学サッカー大会に出場することはできなかったが、この試合を視察に来ていたのが、当時、四中工を率いていた樋口士郎氏だった。
「ぜひ、ウチにきてほしいとすぐに思った」
そこから樋口氏は、浅野獲得へ全力を注いだ。
しかし、浅野獲得はかなり難航した。何度誘っても、彼は首を縦に振らない。理由は中学進学時とまったく一緒だった。
「家計のことを考えると、遠征が多いし、金銭面での問題が出てくる。プロサッカー選手になれる自信があったからこそ、べつにサッカーの強くない普通の公立高校に行っても、国体などで活躍し、そこで頑張れば必ずプロになれると思っていた」
彼らしい思考だった。ただ、本音としては、四中工のような強豪校でプレーをしたい気持ちはあった。
「四中工に行ったほうが、より自分のためになることは十分理解していたんです」
浅野が希望した高校は、県でベスト8まではいくが、全国大会には遠い地元の県立高校だった。
周りに迷惑をかけない選択をしようとする浅野に対し、樋口氏はあきらめることなく、何度も高校時代の後輩でもある内田氏とともに説得に動いた。
とはいえ、家族を思ったうえでの彼の意志を変えることは、簡単ではなかった。
そんななか、夢と現実の狭間で大きく揺らいでいた浅野の心を、内田氏のある一言が動かした。
「内田先生から、『3年間だけは親に辛抱してもらって、3年後にプロになって自分で返していけばいいと思うよ』と言われたとき、『たしかにそうやな』と、自分のなかで何か腑に落ちた部分があったんです」
この言葉で彼の決意は固まった。
「両親には、『3年間は迷惑をかけるけど、プロになってからは僕が経済面も含めてなんとかする』と伝えました。その時点で、僕のなかでプロになることは『夢』という甘い言葉ではなく、絶対にプロにならなければいけない新たな理由が増えたのです」