あのアウシュヴィッツ収容所に自ら志願して投獄された男がいた……? 人類の歴史の中でも特筆すべき悪の限りが尽くされたというアウシュヴィッツに単身乗り込み、収容所内に地下活動組織を作り上げ、外部へその実態を伝える諜報活動も行なったと? この本を手にした時、「小説」なのかと思った。これが本当にあったことだなんて信じられないが、まごうことなきノンフィクションだった。
ポーランド人将校のヴィトルト・ピレツキは、ナチス占領下、レジスタンスの地下組織にいた。激しい弾圧のもと、次々に拘束された仲間たちは「収容所」に送られていく。ドイツ人はそこをアウシュヴィッツと呼んでいたが、内情は全くわからない。そこで「収容所に潜入し、情報を集め、可能なら抵抗組織をつくって脱走させ」るというミッションを与えられたのがヴィトルトなのだ。レジスタンス組織の一員であることがバレれば即座に処刑されるだろうし、うまく潜入したとしても過酷な収容所の環境で地下組織など構築できるのか。こんな任務を自ら引き受けた人物が存在するとは。驚きを抱いたまま読み進めることになるのである。
ヴィトルトが潜入した当時のアウシュヴィッツは、まだ収容したポーランド人の民族的背景を区別していなかった。が、やがてアウシュヴィッツは変貌し、筆舌に尽くし難いユダヤ人虐殺工場として機能を「進化」させていく。それをつぶさに目の当たりにしながら、ヴィトルトは地下組織を構築していく。まずヴィトルトの工作員としての能力に驚く。拷問、処刑、暗殺、伝染病。過酷としか言いようのない中で一人、また一人と仲間を募り、かつ組織化していく。組織化工作が漏れて仕舞えば万事休す、仲間にするかどうか人物を見極めなくてはならない。誘いに応じる方にしてもまさに命懸けだ。ヴィトルトという人物がよほど信頼されなければ応じられないだろう。人の命、尊厳というものがあまりにも安易に踏み躙(にじ)られる現実の只中で、己自身の尊厳を自ら守り通す人々の姿に圧倒される。
それだけにヴィトルトたちの奮闘にもかかわらず、ナチスの崩壊まで彼らが外部へと送り続けた情報が生かされなかった事実の虚しさも胸にせまる。戦後、世界はアウシュヴィッツに「驚いてみせた」が、実は収容所に囚われていた人々によってすでに知らされていたのだということ。にもかかわらずその事実は打ち捨てられ、犠牲を増大させるに至ったのだということ。そしてその過ちの存在自体が忘れさられてきたということ。歴史に学ぶというが、あまりにも多くのことを私たちは知らないのだ。
上下二巻にわたってひたすら淡々と、しかし濃密に綴る筆致が印象に残る。あまりにも残酷なあらゆる出来事が、こんこんと降り積もってくるような文体が残す余韻は重く心に残った。
Jack Fairweather/イギリスの作家、ジャーナリスト。「ワシントン・ポスト」の映像ジャーナリストなどを務めた。本書は2019年のコスタ賞伝記部門を受賞。
あさぎくにこ/1962年、東京生まれ。テレビ、ラジオで活躍するほか、ウェブや新聞で書評を担当。著書に『生命力を足すレシピ』など。