『普通という異常 健常発達という病』(兼本浩祐 著)講談社現代新書

 わけあって、3年ほど前から、発達障害(主にADHD:注意欠陥多動性障害)について取材しているのだが、あまりにわかりにくい概念で呆れる。最近ではさすがにだいたい理解できてきたが、今度はそれを人に説明できずに難儀している。

 難しさの一つは個人差。ADHDの場合、「注意力が散漫」「段取りよく作業できない」「目先の利益にとらわれがち」「思ったことをすぐ言ってしまう」などがよく挙げられるが、同じADHD当事者でも、症状の現れ方はてんでんばらばらである。

 二つめは程度。上に挙げた“症状”を聞いて、読者の方は「誰だって多少はあるよ」と思うはず。そう、ADHDとは「程度」の問題なのだ。学校や家庭や職場といった社会(他者)とうまくやれているかどうかが発達障害の診断基準である。つまり主観的かつ相対的な評価しか存在しないのだ。

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 ……ほら、もう発達障害のことを考えるのが嫌になったでしょう? そこで本書を開こう。冒頭にすごいことが書いてあるのだ。

「『普通の』人たちというのは、『相手が自分のことをどう考えているか』が、『自分がどうしたいか』よりも優先される人だと、とりあえずはここでは言っておきたい」

 言い換えれば、「相手が自分のことをどう考えているか」より「自分がどうしたいか」が優先しやすい人を発達障害と大雑把に定義することができる。自分がどうしたいかとは「肉は嫌いだから食べない」というような拒否感も含む。

 これほど、わかりやすい発達障害の基本定義はないんじゃないか。大雑把すぎるかもしれないが、それゆえに広く深く使えると私は思う。少なくとも出発点はこれでいい。

 自分の欲求や嫌悪を相手より優先すれば、相手(他者や社会)とぶつかりがちなことはすぐにわかる。では、相手の目を優先する普通の人は問題ないのかというと、答えはノー。普通の人は発達障害の人より生きていくために他者の承認(いいね)を必要とするからだ。

 この意外な着目点からスタートする本書は、「他者の承認(いいね)とは一体何か」を精神医学、哲学、文学、芸術を総動員して深掘りしていく。その才気煥発ぶりは尋常でない。どうやら著者自身かなりADHD傾向が強いらしく、途中からは「歯止めの利かなくなった手品師」のように、シルクハットから次々と異様な議論や「喩え話」を取り出していく。私は「ディズニーランドと天皇制の共通点」でのけぞった。ぶっ飛んでいる。でもめっちゃ面白い。

 普通の人が陥りやすい「いいね地獄」からの脱出方法として、「誰もがある程度持っているADHD的傾向が役立つ」という箇所に注目したい。ADHD的な魅力を充満させた本書がそれを証明していると思う。

かねもとこうすけ/1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。専門は精神病理学、神経心理学、臨床てんかん学。『なぜ私は一続きの私であるのか』『発達障害の内側から見た世界』など著書多数。
 

たかのひでゆき/1966年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。著書に『謎の独立国家ソマリランド』『語学の天才まで1億光年』など。