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東海道新幹線「のぞみ」“首都圏のちょっと地味な停車駅”「新横浜」には何がある?

2023/03/13

genre : ニュース, 社会,

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 開業した頃の新横浜駅は、もちろんいまほどは栄えていなかった。篠原口にあたる東側の高台には昔からの集落があったが、西側は鶴見川と鳥山川が合流する低地部で、増水時にはいとも簡単に水が溢れる氾濫原。一面田畑が広がるばかりで、町という町はなかったようだ。

 停まる列車も各駅停車の「こだま」だけ(その頃は「のぞみ」はありませんでした)。横浜という大都市の、新しい玄関口というにはあまりに寂しい、新横浜駅の船出だったのである。

“「こだま」だけの停車駅”の開発は進むが…

 それでも、駅周辺が平らな田園地帯ならば、開発の余地はある。横浜市は新横浜駅周辺の25万坪を対象に、大規模な区画整理事業を進めていった。総事業費は実に30億円にのぼる。

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 ただ、開発スタートはちょっと遅めの1964年春以降。新幹線開業まで半年という時期での区画整理スタートでは、開業に間に合うはずもなく、さらに「こだま」しか停まらないとなれば、長らく駅周辺が田園地帯のままだったのもとうぜんといっていい(ちなみに、当初は横浜線も単線だった)。

1966年の「新横浜」周辺(国土地理院の空中写真より)

 なお、新横浜駅の開業に先立って、周辺一帯の土地を“関西の土地ブローカー”を名乗る男が買い占めている。それも駅の位置が決まる前のこと。安値で地主から土地を買って、国鉄などに高値で売却して利ざやを稼ぐ、というアレだ。これはのちに検察も動くほどの疑獄事件に発展していく。

 それはともかく、新横浜駅前の区画整理事業は実に10年ほどをかけて、1970年代前半にようやく形を整えた。ここにきて、駅前の田園地帯はとくにビルもなにもない区画整理だけが終わった町の風景に変化したというわけだ。

 ただ、70年代前半に至っても新横浜駅に停まるのは「こだま」だけ。それでは大都会化も望めない。しばらくの間、新横浜駅周辺の空き地にはラブホテルが建ち並んでいたとか。“新横浜=ラブホ街”というのが、70~80年代にかけてのイメージだったのだ。区画整理が完了した時期がちょうどオイルショックに重なり、開発需要が低下していたことも理由のひとつだという。

1984年の「新横浜」周辺(国土地理院の空中写真より)

「新横浜」の光景を一変させた地下鉄の開業

 新横浜駅周辺が大いに発展するきっかけになったのは、新幹線よりもむしろ1985年に開業した地下鉄新横浜駅だ。

 それまでの新横浜駅は横浜線だけの接続で、横浜市内の人でも2度乗り換えねば新幹線にたどり着けないような駅だった。これが理由で、新横浜駅をもう少し海側の東神奈川駅付近に設けられないかと検討されたこともあったくらいだ。