「俺達は頑張って頑張って、やっとここまで来ました。津波で全てを失ったにもかかわらず、漁を復活させてきたのです。しかもまだこれからという時なのに、どうして脅かされなければならないのか。再起のための借金を抱え、今も支払いを続けている漁師が多いというのに」
宮城県漁協の組合長、寺沢春彦さん(60)がやる瀬ない表情で語る。
隣の福島県で東京電力福島第一原発が放出しようとしている「処理水」。海続きの宮城県でも水産業に風評被害があるとされていて、漁師達は神経を尖らせている。
そもそも宮城県の漁師には何の罪もない。
寺沢さんが漁師の代表として危機感を募らせるのは、復興にかけてきた膨大なエネルギーと、だからこそ漁業を将来に残していきたいという熱い思いがあるからだ。それを知るために、12年前の「あの日」のことを思い出しておきたい。
「いいから、とにかく今日だけは逃げてくれ」
寺沢さんは当時、松島湾に面した宮城県七ヶ浜町でノリの養殖に取り組んでいた。2~3月はノリの水揚げ量が増えて、一年で一番忙しい時期だ。2011年3月11日は朝から海に出て昼過ぎに戻り、午後は自宅の加工場で乾燥機の操作をしていた。
午後2時46分、東日本大震災が起きた。
「タンクが吹き飛んで、灯油缶も倒れる。何トンもある乾燥機はさすがにズレただけで済みましたが、経験したことのない激しい揺れでした」
消防団員だった寺沢さんはすぐに出動した。仲間とポンプ車に乗り、避難を呼び掛けて回った。
「もう、そろそろ津波が来る頃だ」
そう思いはしたが、まだ逃げていない人がいるような気がした。
寺沢さんの父も最初は「逃げない」と言い張っていたからだ。「いいから、とにかく今日だけは逃げてくれ」と説き伏せ、家にいた母や妻と一緒に、飼い犬を連れて車で避難させた。
「回れるならもう一度、避難を呼び掛けて来よう」と、仲間とポンプ車で高台から下る。ちょうどその時、海岸を越えた津波が真正面から迫って来た。慌ててバックで走らせて、かろうじて海に呑まれるのを免れた。
「避難の呼び掛けに坂を下るタイミングがもうちょっと早かったら命はありませんでした」
寺沢さんは自宅が見える場所にいなかったが、「大通りに面していて津波の通り道になったのか、自宅の辺りで渦を巻いていたそうです。2日後に見に行ったら、基礎しか残っていませんでした。揺れではズレただけだった乾燥機も500mほど離れた場所に流されていました。近くの倉庫の上には流された動力船が乗っかっていました」と話す。