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 町内では73体の遺体が見つかった。「私の地元の地区では、一度は逃げたのに何かを取りに戻った人、重病などで動かせなかった人、中には過信して逃げなかった人もいて亡くなりました」と寺沢さんは語る。

「ご遺体が横たわっているすぐそばを……」

「ご遺体が横たわっているすぐそばを、高齢者を背負って避難所に運ぶなどしました」

 4日ほどして、自衛隊などの捜索が本格化すると引き継ぎ、消防団員はそれぞれ地元に戻った。団員も被災者なのである。

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 実は七ヶ浜のノリ漁師は前年に続き、連続2年目の被災だった。

 2010年2月、チリでマグニチュード8.8の地震が発生。現地では津波で約800人が犠牲になった。これが約1万7000kmも離れた地球の裏側の日本にも到達したのである。国内での住宅被害は床上・床下浸水が計57戸だったが、宮城県の塩釜港では航路標識が何百mも動くなど、海のうねりは相当に大きかった。塩釜港は七ヶ浜町のすぐ隣だ。ノリ養殖のイカダにも被害が出て、激甚災害の指定を受けた。東日本大震災で壊滅させられたのは、養殖イカダがようやく直せた頃だった。

七ヶ浜町の漁港。沖に養殖のブイが浮かぶ ©葉上太郎

 七ヶ浜町の漁師は、まず瓦礫の片づけから始めた。

 不思議なことに、寺沢さんが船を係留していた港では6~7割の船が助かった。「全船失われた港もあったのに、驚きました。岸壁が沈下して、船のもやい綱が緩んだせいかもしれません。岸壁からしっかり引っ張られていたら転覆したり、沈んだりしたでしょうが、そうならなかったのです。私も所持していた5隻のうち2隻が残りました。『養殖を再開しろ』というメッセージなのかなと思いました」。

 7月、瓦礫の処理はまだ済んでいなかったが、アワビやウニの漁を始めた。仲買人に話をすると、「買い取る」と言う。「収入を断たれていたので少しでも現金につなげたかったし、海の状態が知りたかった面もありました」。

 沿岸の水深5~6mの海底が漁場だ。コンテナやテレビ、冷蔵庫、タイヤと様々な物が沈んでいた。「あまり気持ちのいいものではありません。車もありました。手袋を見つけたら、ドキッとしたりして……。漁に出た仲間の中には海面でご遺体を見つけた人もいました」と話す。

 8月になっても瓦礫の片づけは終わらなかった。だが、寺沢さんは地元の人々に断って、2人の仲間とノリ養殖の準備を始めた。例年9月20日頃がノリの種付け時期になる。再開するならもう時間がなかった。

「養殖イカダは1軒当たり120台ほどが平均です。全て海に設置してしまうのではなく、それぞれ陸上に予備を保管していました。そこで自分達の予備を持ち寄ったほか、貸してくれる人からかき集めて、計120台を海に入れました。3人で走り回っても、結局1人分しか復活させられませんでした」