信長の同時代、すなわち十六世紀当時のキリスト教世界を代表する建築は、なにを措いても、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂だった。いまもフィレンツェのシンボルであり続けているこの教会堂は、中央にフィリッポ・ブルネッレスキ設計のクーポラをいただいた八角形のドームが載り、その上に小さな望楼が載せられている。
信長からヨーロッパの建築について尋ねられたフロイスらが、具体的にどんな建築について語ったかを想像するに、フィレンツェの大聖堂について触れなかった可能性は、かぎりなく低いように思われる。そして、安土城天主のてっぺんから2層は、その様態を言葉で説明するかぎり、この大聖堂の形式に非常に近いのである。
といっても、信長が宣教師らの話から影響を受け、わけてもフィレンツェの大聖堂の姿を意識したと証明できる史料は存在しない。だから、歴史とは厳密な史料批判を行い、事実のみにもとづいて記述するべきものだ、という実証主義の立場からは、こうした推論は否定されてしまう。しかし、われわれの実生活を思い起こしても、なにかを見て強烈な印象を受けたり、だれかの言葉に心を突き動かされたりして、自分の理想や世界観が大きく変わることは多い。
繰り返すけれども、そういう影響は具体的な記述に残りにくく、実証的に示すことが困難である。だから、歴史を客観的に把握する姿勢を貫くほど、すくい上げるのが難しい。したがって、これから記すことも推論を越えないが、信長と宣教師たちとの交わり方から考えるに、彼らからの影響がないと判定するほうが不自然だと私は考える。
織田信長は諸外国に偉業と評判が届くか気にしていた
信長は永禄12年(1569)にはじめて宣教師と会ってから、天正10年(1582)に本能寺で命を絶たれるまでの十三年ほどのあいだに、記録にあるだけでも、彼らと三十回以上も面会している。そのたびに信長は、みずからの偉業とその評判が諸外国にどのように届くか、非常に気にしていたことが記録からわかる。
フロイスの『日本史』には、永禄十二年、京都での布教の許可を得たい司祭が、将軍足利義昭邸新築の指揮をとる信長を訪ねたときのことが、こう記されている。
「自分が都に自由に滞在してもよいとの殿の允許状を賜りたい。それは殿が目下、私に示すことのできる最大の恩恵の一つであり、それにより、殿の偉大さの評判は、インドやヨーロッパのキリスト教世界のような、殿をまだ知らない諸国にも拡がることであろう、と恩寵を乞うた。これらの言葉に接し、彼(信長)は嬉しそうな顔付きをした」