戦国時代に生まれた築城技術は、西洋の影響も受け、江戸時代初期までめざましく進歩し続けた。しかし一国一城令や鎖国により、状況は一変することになり――。
ここでは『教養としての日本の城』(平凡社新書)より一部抜粋し、徳川家康が築いた江戸城の知られざる魅力をお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
完成までに30年以上要した壮大なスケールの江戸城
260余年にわたる太平の世をつくり上げた徳川将軍家の居城、江戸城のスケールは、ほかの城とは比較にならないほど大きい。内郭は周囲約7.85キロメートルで面積が約425ヘクタール。外郭は周囲約15.7キロメートルで、その内側の面積は約2082ヘクタール。姫路城の内郭が約23ヘクタールで、外郭の内側が約233ヘクタールだったと記すことで、その途方もない規模が伝わるだろう。浅草橋、御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四谷、赤坂見附、虎ノ門……と、外堀沿いの地名をならべただけで、かなりの遠隔地どうしが江戸城の外堀で結ばれていることに気づくに違いない。
この巨大な城は主に天下普請によって築かれた。徳川家康は天正18年(1590)に江戸に入府すると江戸城の整備に着手したが、当時の家康はまだ豊臣政権下の一大名にすぎなかったので、それは遠慮がちに行われた。しかし、慶長5年(1600)に関ヶ原合戦に勝利し、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられると一転、江戸城を拡張して整備する工事を全国の大名に命じた。そして、大きく分けて5期にわたる工事をへて、3代将軍家光の時代である寛永14年(1637)までに、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などで構成される内郭、および外郭までがいちおうの完成を見ている。
ところが、明暦3年(1657)正月、壮麗な江戸城はほぼ灰燼に帰してしまう。1月18日朝、本郷丸山の本妙寺から出たとされる火は、折からの強風にあおられて江戸市中を北から南へ焼き払っていった。いったん収まったかに見えたが、翌日、小石川からも出火。それが江戸城中にも燃え広がり、本丸、二の丸、三の丸が焼失。天守も本丸御殿も焼け落ちてしまった。また、その日の午後には6番町からも出火している。結局、江戸の6割以上が焼失し、江戸城のほか大名屋敷が500余り、旗本屋敷770あまり、神社仏閣350余り、町屋400町が失われた。