福田千鶴氏は『城割の作法』で、戦国の城をめぐる習俗として、次のようなことを挙げている。城を乗っとった勝者が敵対者の怨念を封じるために城を「わる(壊す)」必要があったこと。敗者にとっては、自分が捨て置いた城を他者が壊すことになるのは残念だから放火すること。そして、末代までも恥辱にならないために城に火をかけて自害すること。江戸城の火災と直接結びつく話ではないが、燃えやすい建物に囲まれていた日本人にとって、火災や放火は作法や習俗に取り入れられるほど身近であり、時にはポジティブに起こすべき事柄であったことがわかる。
一方、ヨーロッパでは、あたらしい領主が旧領主の居城や宮殿をそのまま使い、必要に応じて改築を重ねるのがふつうで、習俗としての放火など存在しなかった。ヨーロッパでは宗教建築にせよ、世俗建築にせよ、できるだけ長く使いつづけるべきものだったが、こと世俗建築に関し、日本にはその発想が希薄だった。建物が火につつまれることへの抵抗感もまた、ヨーロッパにくらべれば希薄だったように感じられる。
もう一つあった火災への抵抗感が少ない理由
火災への抵抗感が弱かったのは、再建のしやすさとも関係するのではないだろうか。彦根城の章で触れたが、日本の伝統工法による木造住宅は、木材に凹凸を加工し、釘を使わず組み合わせて建てられてきた。このためルイス・フロイスも、木材さえ加工し終えていればあっという間に建物が建ってしまうと驚愕している。レンガや石を積み重ねるヨーロッパの建築にくらべ工期がはるかに短く、比較的簡単に再建できる以上、防災意識がおのずと低くなっても不思議ではない。
事実、130を超える建物からなり、床面積が1万坪を超える巨大な建築だった江戸城の本丸御殿が、焼失後にわずかの期間で再建された事実には驚かされる。3代目の御殿が火災に遭うと、8カ月後には4代目が竣工し、5代目が焼けると、6代目はその9カ月後に完成している。
さらに驚かされるのが、焼失するたびにほぼ同じプランによる同じ規模、同じ形状で再建されてきたことである。そのことからは別の問題も見てとれる。幕末の万延期(1860年代)に建てられた最後の本丸御殿が、200年以上もさかのぼる寛永期(1630年代)のものと、プランも形状もほとんど一緒なのである。これだけの時をへていながら様式も、規模も、耐火性能も、ほとんど変えずに建てられたという類例は、世界にもあまりないのではないだろうか。