その後も火事は頻発。約260年間で起きた件数はなんと…
しかし、復興は速かった。そして、それまでは内郭の吹上にならんでいた徳川御三家の上屋敷を郭外に移したのをはじめ、大名屋敷や武家屋敷、寺社を移転させ、海浜のあらたな埋め立てによって武家地や町人地を確保しながら、各地に延焼を防ぐための火除地や広小路をもうけるなど、防災を意識した都市建設が進められた。
それでも、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残るように、その後も江戸は、世界史上ほかに類例がないほど火事を繰り返した。関ヶ原合戦後から慶応3年(1867)までの260余年のあいだに、大火だけでも90件は発生したといわれる。とくに火事が多かったのは狭隘な建物が密集していた町人地で、江戸芝居三座のひとつに数えられた葺屋町の市村座にいたっては、明暦の大火以降、幕末までに33回も全焼したという。どう考えても異常な数字である。
それにくらべれば少ないとはいえ、幕府の中枢であった本丸御殿は5回も焼失を重ねている。その記録をたどりながら、江戸城の特殊性について考えたい。
将軍の居所で政庁でもあった本丸御殿は、南から北に向かって表、中奥、大奥の3つに分かれていた。表は将軍が公的な儀式や行事をとり行う場所で、役人たちの執務の場でもあった。なかでも東西約50メートルの規模を誇った大広間は、将軍の謁見などが行われるもっとも格式の高い殿舎で、白書院、黒書院がそれに次いだ。続く中奥は将軍が日常生活を送る場所で、ここで執務もなされた。そして大奥は、将軍の夫人や女中らが暮らす場で、面積は本丸御殿内でいちばん広く、中奥とは御鈴廊下だけで結ばれていた。
最初の本丸御殿は慶長11年(1606)9月に竣工し、次に本丸の拡張に合わせて元和8年(1622)11月、2代目の御殿が竣工している。南北約400メートル、東西約120~220メートルの本丸の敷地内に、130あまりもの建物が表、中奥、大奥に分かれてすきなく建つ基本プランは、この2代目ででき上がったと考えられる。続く3代目は寛永14年(1637)9月に竣工し、あまりの豪華絢爛ぶりに3代将軍家光が文句をいい、改築された。しかし、2年後の同16年8月に焼失してしまう。本丸御殿が焼失したはじめての記録である。