戦国時代に生まれた築城技術は、西洋の影響も受け、江戸時代初期までめざましく進歩し続けた。しかし一国一城令や鎖国により、状況は一変することになり――。

 ここでは『教養としての日本の城』(平凡社新書)より一部抜粋し、織田信長が築いた安土城の知られざる魅力をお届けする。(全2回の1回目/つづきを読む)

安土城築城前、宣教師らを質問攻めにした織田信長

 たしかに、フロイスの『日本史』には、信長の安土築城にあたって、南蛮人とよばれた人たちがなんらかの協力をしたとか、サジェスチョンをあたえたという記述はない。それ以外の宣教師たちの記録にも、そういう記録は見つからない。

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 だが、『日本史』によれば、信長は面会した宣教師らをいつも質問攻めにしている。このほか、「彼(信長)がインドやポルトガルからもたらされた衣服や物品を喜ぶことに思いを致したので、彼に贈られる品数はいともおびただしく」という記述からも、信長が南蛮の文物へ強い関心をもち、所有するのを好んだことがうかがい知れる。また、永禄12年(1569)、フロイスらに岐阜城内を案内する前に、信長は「貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する」と発言したという。

Gary Campbell-Hall、https://www.flickr.com/photos/garyullah/21208048669/

 さらには、岐阜城を案内する際の信長の様子についても、フロイスは「彼は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は二時間半、または三時間も続きましたが」と記している。このときにかぎらず、信長はフロイスらと対面するたびに、日本の建築などをヨーロッパのそれとくらべたがったことは、見逃してはなるまい。

 つまり、宣教師たちから、建築についての指導を直接は受けなかったとしても、彼らの語るヨーロッパの建築に想像をめぐらせ、イメージを喚起され、それを日本で具現化しようとした可能性は否定できない。それは、われわれが日常的に周囲の人たちやさまざまな文物から受ける影響と似ている。そして、このような影響は文献には残りにくい。

“大聖堂”の形状に非常に近い安土城

 では、安土城天主のどこに、なにからの影響が感じとれるだろうか。先に天主の地上五階は八角堂だったと書いたが、当時の日本には、高層部に八角堂がしつらえられ、そのさらに上部に四角い望楼が載せられた建築など、安土城の前には絶無だった。では、西洋には当時、それに類する建築があったのだろうか。