「巡察師が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分がある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついで内部からも見せ、どこを通り何を先に見せたらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行い、彼らが城の見事な出来栄えを称賛するのを聞いて極度に満足の意を示した」
そして、ヴァリニャーノが安土を発つ際に、「信長はさらに大きい別の好意を示した」
とフロイスは記し、こう続けている。
正親町天皇への献上を断り、宣教師に屏風を贈った。そこに描かれた安土城は――
「一年前に信長が作らせた、屛風と称せられ、富裕な日本人たちが、独自の方法でもちいる組み立て(式の)壁である。(中略)彼はそれを日本でもっとも優れた職人に作らせた。その中に、城を配したこの市を、その地形、湖、邸、城、街路、橋梁、その他万事、実物通りに寸分違わぬように描くことを命じた。この製作には多くの時間を要した。そしてさらにこれを貴重ならしめたのは、信長がそれに寄せる愛着であった」
この屛風は正親町天皇も気に入っていたが、譲ってほしいという天皇の懇願を信長は断っていた。それを信長は「伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ねて来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屛風を贈与したい」とみずから申し出て、ヴァリニャーノに贈ったのである。
その後、屛風は天正遣欧少年使節に託されて、ローマ教皇グレゴリウス13世に献呈され、ヴァティカン宮殿の地図の間にしばらく展示されていた。この屛風が発見されれば、安土城の外観を復元するうえでの決定的な史料になると考えられるが、残念ながら長らく行方不明のままである。しかし、この屛風のおかげで安土城の名と雄姿は、日本建築としてはじめて西洋に正確に伝えられた。
信長は屛風を載せた船が長崎港を発った4カ月後、本能寺の変に斃れたが、ヨーロッパの城にも負けない絢爛豪華たる自身のシンボルとその評判を海外に伝えたいという強い願いは、叶ったともいえるのである。