また、同じ年に司祭が正式な允許状、すなわち朱印状をもらうために、銀の延べ棒を携えて信長と面会した際のことが、こう書かれている。
「そこで信長は笑い、予には金も銀も必要ではない。伴天連は異国人であり、もし予が、彼から教会にいることを許可する允許状のために金銭の贈与を受けるならば、予の品位は失墜するであろう、と語った。その他、彼は和田殿(惟政)に向かい、『汝は予がそのように粗野で非人情に伴天連を遇すれば、インドや彼の出身地の諸国で予の名がよく聞こえると思うか』と言い……」
フロイスの描写を読むかぎり、信長が海外の目を気にしていたことに疑いをはさむ余地はない。そのうえで、イエズス会『日本年報』に記された安土城についての、「木造でありながら、内外共に石か煉瓦を使用したようで、ヨーロッパの最も壮麗な建物と遜色はない」という記述の意味を考えてみたい。
安土城を宣教師に案内した
安土城天主の外観は、三重目までの壁面は、軒下が白漆喰で下部が下見板張りだったと考えられるが、下見板や窓には黒漆が塗られて艶やかに輝き、白木は見えなかった。八角堂の四重目(地上5階)は木部が朱塗り。そして最上重の五重目は金と青に塗られ、破風などには黄金の飾り金具がほどこされていた。また、内部は金碧障壁画のみならず、柱も板張りの床も黒漆が塗られ、天井は黒漆の格子に板絵がはめられ、黄金の飾り金具で縁どられた。最上階にいたっては床まで金箔が貼られていたようで、白木はほとんど見えなかったと思われる。
木造建築にそのような処理を施したこと自体、宣教師をとおして石造建築が主体のヨーロッパなどに、その評判が伝わることを意識したからだとは考えられないだろうか。
天正9年(1581)、イエズス会のイタリア人巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが安土に到着したときの信長の歓待ぶりに、この権力者の海外の目に対する意識がよくあらわれている。ふたたびフロイス『日本史』から引用する。