世界三大大火の「明暦の大火」と「ロンドン大火」を比較すると……
ここで明暦の大火を、その9年後の1666年に起き、ともに「世界三大大火」のひとつに挙げられることがあるロンドン大火と比較してみたい。パン屋のかまどから出火したという火は、風にあおられ4日にわたって延焼し、市壁内の8割以上が焦土と化し、1万3000戸が焼失したというロンドンの大火。当時のロンドンの家屋はほとんどが木造二階建てで、道路も狭かったため、燃え広がる条件がそろっていたのである。
しかし、明暦の大火が一説によれば10万人以上の犠牲者を出したのに対し、ロンドン大火による死者は数名にすぎなかったという。また、火災の翌年には再建法が制定され、木造建築は禁止され、家屋はレンガ造か石造でなければ認められないことになった。
このとき建築総監に任命された建築家クリストファー・レンは、バロック様式による大がかりな都市再建計画を提案。現実には大規模な都市改変は実現しなかったが、拡幅された道路に沿ってレンガ建築がならぶ近代都市へと、ロンドンは生まれ変わった。また、焼失したセント・ポール大聖堂が以前のゴシック様式をあらため、35年をかけて壮麗なバロックのスタイルで再生したように、新築された建てものにはあたらしい様式が採用された。
何度焼けても愚直に同じものを建てつづけるという姿勢は、世界史的な視点から眺めるとあきらかに異常である。諸大名が居城を修復する際も、武家諸法度によって原則、旧状の回復しか認められなかったとはいえ、江戸城は天下人の城である。それでも御殿にかぎらず櫓も、城門も、再建に際して様式が変更されることはなかった。
寛永から万延までの220年ほどは、鎖国という特殊な体制が続いた期間と重なる。世界と接触することを、政権を維持するうえでのリスクととらえて国を閉じた結果、幕藩体制下での平和は続いたが、ある点で人間の営み、とりわけ為政者の営みが、きわめてルーティーンに堕したとはいえないだろうか。時代の様相が更新されなくなり、ある時点において先端的だったスタイルが塩漬けになって継承されていった様子が、江戸城本丸御殿に見てとれる。