すぐにもとどおりの規模、形状で再建され、同17年4月に竣工した4代目は「御本丸惣絵図」(大熊喜英氏所蔵)などの平面図が残っている。ところが、この御殿を襲ったのが明暦3年の大火だった。天守をはじめ多くの建物とともに焼失後、万治2年(1659)8月に竣工した5代目は、絵図や建地割図などが「甲良家史料」として残っている。それによると、4代目にはなかった舞台が中奥に見られるなど若干の差違はあるが、プランも形状も基本的に踏襲されている。
この5代目御殿は、その後に発生した元禄16年(1703)の大地震なども乗り越えて長く命脈を保ったが、結局は、天保15年(1844)5月に本丸御殿内から出火して焼失。ただちに再建され、翌弘化2年(1854)2月に6代目が竣工するも、安政6年(1859)10月に焼けてしまい、ほぼもとどおりに再建して万延元年(1860)11月に7代目が竣工した。しかし、この御殿も建てられてわずか3年後の文久3年(1863)11月に全焼すると、すでに幕府の財政が窮乏していたため、その後、本丸御殿がふたたび建つことはなかった。
なぜこれほどまでに火事が多かったのか?
ちなみに、焼失を繰り返したのは本丸御殿だけではない。幕末までに二の丸御殿も西の丸御殿も、それぞれ4回ずつ焼け落ちている。
江戸の火事の原因は、失火はもちろんのこと、放火も少なくなかったと考えられている。いわゆる火事場泥棒をねらったものもあったようだし、大火のたびに建設ラッシュで職人の求人が増え、賃金も高騰したことが記録されており、それも放火の動機になった可能性がある。また、幕末になるほど城内の火災が増えたのは、確たる証拠はないにせよ、幕府の弱体化や討幕運動とかかわりがあるということが取り沙汰されてきた。
火事が多かった背景には、火災を起こしてはいけないという意識の低さも挙げられるだろう。日本の木造建築が火災に弱いのは周知のとおりだが、焼けやすい環境に囲まれていたからか、日本では歴史的に、火災に対して心理的なハードルが高かったとはいえない。火災が戦略的に引き起こされた例も多い。東大寺や興福寺など南都(奈良)の寺院を焼きつくした平重衡の焼き討ちや、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちなどが思い起こされる。また、城攻めなどの際にも敵を攻めやすくするために、当たり前のように周囲の村落や城下町が焼かれた。羽柴秀吉に追い詰められた柴田勝家が、越前北ノ庄城の天守に火をかけて自害したように、敗れた側がみずからの城や住居に火をかけることも珍しくなかった。