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 ただ、鳥栖という町はそのような歴史を持たない。いまの鳥栖市内は、北東側が対馬府中藩の飛び地領、南西側が佐賀藩領と分かれていた。そしてその中を通っていたのが、小倉と長崎を結んだ長崎街道である。

 

交通の要衝だった「鳥栖」

 オランダ商館長が江戸に赴く際はきまって通る道筋で、いまの鳥栖市内にはふたつの宿場があった。

 ひとつが対馬府中藩領に属する田代宿、もうひとつが佐賀藩領に属する轟木宿。

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 明治初めの佐賀の乱では、反乱軍の鎮圧に赴く大久保利通が博多から田代までを馬で、田代から轟木までは人力車で移動し、しばらくの間轟木に本営を置いたという。

 いずれにしても、鳥栖一帯は佐賀・長崎方面に向かうためには避けて通れない要衝の地だったのだ。

ここでひとつ疑問が…

 ところがここで疑問が生まれる。

 田代宿の近くには田代駅という鹿児島本線の駅があるが、規模は鳥栖駅と比べて圧倒的に小さい。轟木宿は鳥栖駅から歩いて20分ほどの距離だ。つまり、鳥栖駅はそのどちらからも絶妙に離れた位置に設けられたのである。いったいどういうことなのか。

 定かなことはわからないが、宿場町の真ん中に駅を置いたり線路を通すことを避け、少し離れた土地を広くとれるところに駅を置いた結果なのかもしれない。

九州で最も古い駅のひとつ「鳥栖」

 鳥栖駅が開業したのは1889年。九州鉄道が最初の路線を開通させたときに開業した、九州で一番古い駅のひとつだ。

 次いで1891年には鳥栖駅を起点に現在の長崎本線が開通し、鹿児島本線・長崎本線の分岐点としての地位を確立する。

 最初の鳥栖駅は鹿児島本線と長崎本線が分かれたばかりの南側、つまり轟木宿の近くに位置していたようだが、1903年に現在地に移転している。

 そして鉄道の要衝として駅周辺には操車場や機関区が設けられ、九州では最大規模の“鉄道の要衝”になった。

 

 駅が古い宿場町から少し離れた場所にできたおかげで、広大な機関区を置くだけの土地の余裕があったのだろう。いや、もしかしたら最初から、そうしたことを想定してこの場所に駅を置いたのかもしれない。

“鉄道の町”として成長していった20世紀の「鳥栖」

 鳥栖の町は、機関区のおかげで“鉄道の町”として近代以降の歴史を紡ぐ。