くわしい経緯はあとで述べるけれど、「メキシコでタコス屋の仕事を経験する」という、その後の人生で抱いた夢のひとつが実現したかけがえのない日々だった。
下町なので、自分とシェアハウスの同居人2人を除いて、まず、外国人の姿を見かけることのない地域だった。日本の外務省から治安が悪いから近づくなといわれていた地区の隣だったので、当然といえば当然かもしれない。
でも、実際に住んでみると、治安の悪さを直接感じることは滅多になかった。
急にガス爆発か何かが起こってパトカーが30台近く集結した夜とか、近くで喧嘩があって負けたほうが全身血まみれでフラフラと歩いていく姿を見かけた夜とか、麻薬常習者と思しき2人組が道を尋ねてきたので直後に店を閉めて慎重に帰宅した夜があったのは確かだけれど、逆にいえば、こうして具体的に思い浮かぶいくつかの特殊なケースを除けば、普段は穏やかで暮らしやすく、人々も温かい、まさに、“住めば都”といえるような地域だった。もちろん、日本と比べれば危険に巻き込まれるリスクは高いけれど、きちんと怖がって然るべき作法を守ってさえいれば、基本的にはそんなに危ない目には遭わない。
とはいえ、住み始めたばかりのころは、僕も必要以上にビビっていたので、家の隣の商店の前に毎晩たむろしていた若者達が、やたら怖くて危ない人達に見えてしまうなど、あとで自分の洞察の浅さを反省するようなことも少なくなかった。
時が経つにつれて、彼らともすっかり仲良くなり、ある10代のカップルは生まれたばかりの娘さんの洗礼式にまで招待してくれた(タコス屋の仕事で行けなかったけど、行けたら良かったなといまでも思う)。
この章では、学生生活6年目の夏から約1年間暮らしたメキシコでの日々を中心に振り返りたいと思う。
メキシコで出会った忘れられない“大泥棒”
正直なところ、初めて居住する日本以外の国がメキシコになるだなんて、それ以前に大学卒業前に海外に住むことになるだなんて、入学時点では想像もしていなかった。
あの日、小松先生の言葉に背中を押された僕は、その後ひたすら自分の感覚に素直に生活していくことを選んだ。そのなかで新たな出会いがあり、別れがあり、そこにはいくつかの死別も含まれていた。そうした多くの巡り合わせのなかで、やがて自然に浮かんできた選択が、このメキシコ行きだった。あるいは人生を右往左往していた末に流れ着いた、といったほうがいくらか正確かもしれない。
この日々のなかで、のちに妻となる、メキシコの血を引く女性と出会うことにもなった。いまは6歳になる僕らの息子にも、同じくその血が流れている。つまり彼を通じて、いまや僕の命も公式にメキシコに連なっていることになる。だから文字どおりの意味で、運命だったのだと思う。