成長を遂げた村上は吉本氏の推薦もあって、県内の強豪・九州学院高校へと進学。入学直後から四番に座り、1年夏の熊本大会では初戦、初打席で満塁ホームランを放ち、鮮烈な高校野球デビューを飾った。同年夏の甲子園にも四番として出場するが初戦敗退。2年、3年の夏はともに宿敵・秀岳館に熊本大会決勝で敗れ、甲子園出場は果たせなかったが、その長打力から「肥後のベーブ・ルース」と呼ばれるようになっていた。
「芯でとらえた時の打球はどこまでも飛んでいった」と、捕手だった村上とバッテリーを組んでいた1学年下の後輩・田尻裕昌氏は証言する。
「九州学院のグラウンドはセンター方向に駐車場があるんですけど、練習試合でムネさんが打ったホームランが、普通はまず届かないその駐車場の保護者の車を直撃したんです。それ以降、ムネさんの打球から車を守るため“ムネット”と呼ばれるネットが、新たに設置されました」
最高の日の丸を、トップの侍を目指そう!
長距離砲として覚醒した村上だったが、清宮幸太郎、安田尚憲らが選ばれたU-18日本代表の選考でも落選。九州学院高校前監督の坂井宏安氏は当時を振り返ってこう語る。
「U-18に落選した時、彼はプロになることを決意したんです。『よし! じゃあ最高の日の丸を、トップの侍を目指そう!』と話したのを覚えています。中学、高校と野球エリートでちやほやされてきた子じゃない。1年の時から主力で出ていたけれど一番厳しく指導してきました。3年の夏、最後の甲子園も出られなかったけれど、それでもプロ一本に決めていたから、夏の間も1日も休まずに練習していました。貪欲に、日々精進していったことが今の活躍に繋がっていると思います」
17年のドラフトでヤクルト入団が決まった後、村上は三つの目標を口にした。それは「清宮世代から村上世代にする」「日本一を取る」、そして「日の丸を背負える選手になる」。昨年日本人シーズン最多の56本塁打と、史上最年少での三冠王を達成し、日の丸の中心選手となった教え子を、坂井氏は感慨深げに語る。
「昨季最終戦で56号本塁打を放ったり、一昨年の東京五輪決勝でも本塁打を打ったり、『やっぱり、こいつはそういう星の下に生まれたんやな』って感じました。ムネなら世界の頂点に立つ仕事がきっとできると思います。あれだけのメンバーのなかに入ったというのは本当に誇らしい。選んでもらってありがたいし、選ばれるような選手になったムネにもありがたい、ですね」
日本を代表するバッターに成長した村上宗隆。そこには、人知れぬ涙と努力があった。
(村上宗隆 Munetaka Murakami 2000年2月2日、熊本県生まれ。18年、東京ヤクルトスワローズに入団。19年にはセ・リーグ新人王に選出された。昨季は、日本人選手最多となる56本塁打を記録し、史上最年少で三冠王に輝く)