1975年の終わりごろの録音カセットに残された“音源”
この浅川マキのプロデューサーが寺本幸司。演奏の確かさを認めた寺本幸司は、浅川マキと同時に手掛けていたりりィのバック・バンドであるバイバイ・セッション・バンドにも坂本龍一を招聘していた。
「りりィの場合も、友部さんとのライヴを彼女のプロデューサーが聴いていて、それでバックをやらないかって声をかけてきた」(※※)
バイバイ・セッション・バンドは、寺本幸司が1973年にりりィのバックをさせるためにスタジオ・ミュージシャンらで組ませたバンドだ。一度切りのセッションのつもりで、メンバーがどんどん入れ替わっていくというコンセプトで、実際にメンバーは一定期間在籍するといつの間にか他のミュージシャンに入れ替わっているという歴史を辿っていく。
最初期のメンバーは木田高介(アレンジとキーボード)、土屋昌巳(ギター)、吉田建(ベース)、斎藤ノブ(パーカッション)、西哲也(ドラム)で、やがてアレンジャー兼キーボーディストとして国吉良一が参加。しかし国吉良一も自身の活動のために脱退となったときに坂本龍一に白羽の矢が立ったのだ。
坂本龍一がバイバイ・セッション・バンドに加入したのは先述のラジオドラマの伴奏から1975年の終わり頃のようだが、この時期はまだ土屋昌巳が在籍していたようだ。やはりこの後に長い付き合いになる土屋昌巳と坂本龍一は意気投合し、結果的には出ることがなかった土屋昌巳のソロ・デビュー・アルバムのデモ作りのためのレコーディングに、吉田建、斎藤ノブらとともに参加している。このときの録音のカセットは坂本龍一の私物として現在まで保存されている。
「マー坊(土屋昌巳)とは年も近いしすぐ仲良くなった。当時聴いている音楽も近かったんです。ニューウェイヴ前夜の音楽ですが、彼もその後ジャパンと一緒にやったりと似た方向に行きました。もともとそういう素地があったんですね」(※※)
1976年に発売された俳優の下條アトムのデビュー・アルバム『この坂の途中で』にも、りりィや土屋昌巳らバイバイ・セッション・バンドのメンバーとともに参加している。
バイバイ・セッション・バンドはりりィの1976年のアルバム『Auroila』のレコーディングが始まるときには、メンバーは坂本龍一、吉田建のほか、伊藤銀次(ギター)、上原裕(ドラム)という編成に変化していた。