またまた電車に揺られて家に帰ると、今度は5歳と2歳の姉妹がいて、いつも通りたくさん笑って、たくさん泣いている。
少しずつ死に近づいていく母と、生きる力が溢れている子どもたちを行き来する自分。落差がありすぎてどうしたって、生きることや死ぬことについて考える時間が増えてしまう。布団に入って、眠りにつくまでの時間、表裏一体である生と死について思いを巡らせた。
「せっかく生きるなら楽しい方がいい」と思うように
中学の国語で、平家物語の冒頭を初めて知った時のことを思い出す。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
文の美しさと、残酷な理の対比に強い衝撃を受けた。
誰もが皆、盛者も必衰するのだ。生きる以上、死はやってくる。生きる物はそれを繰り返して、命をつないでいるのだ。そうか、そうだよな。じゃあ生きるってなんだろう。何のために生きるんだろう。そんなことを考えるのは人間だけだろうから、この悩みは人間の贅沢だろうか。
中学の時も今も、死は怖いけど、心境は少し変わった。
ただ漠然と怖くて目を背けていたのが、「せっかく生きるなら楽しい方がいい」と思うようになった。何か劇的な変化が自分に起こったわけではなく、たぶん、あまりにも絶対的な死を、ほんのちょっとずつ受け入れているのだと思う。
棋力は下り坂に入っていくのだろう
私は今年35歳になり、72歳で亡くなった母の、ほぼ半分だ。
人生の折り返し地点であり、時間が経てば経つほど、成長するよりは退化することの方が多くなっていく。将棋も、緩やかだとしても、棋力は下り坂に入っていくのだろう。勝ち負けの世界で、それを受け入れていくのは、たぶんかなり厳しい。しかしそれもおそらく、誰もが抗いながら受け入れていくのだろう。
諦めることと受け入れることは、似ているけど、気持ち的には違う。事実を受け入れた上で、死を迎えるまでどうやって生きていくかは、その人が選べる。
最後に額に手を乗せ、「お疲れ様でした」と声を掛けた
自分がこの世を去る時に、何を思うだろう。
10年、20年、その時々で思っていることは変わるだろうけど、少なくとも人生の半分くらいは将棋を指して生きているから、誰かが自分の棋譜を並べてくれたら嬉しいはずだ。並べたいと思われるような将棋を、指したい。
母はどういう人生だったのだろう。
最後に額に手を乗せ、「お疲れ様でした」と声を掛けた。
葬式が終わり、桜が咲いた。
春が来る度に桜は咲いて、散っていき、私たちはそれを美しいと感じる。
子どもと散歩していると、「こんなに切って大丈夫なの?」と思うほど短く剪定された紫陽花の枝から、きれいな緑色の新芽が上へ上へと伸びていた。