2016年、アメリカの動物園で一つの事件が起きた。3歳の子供が柵によじのぼり、内側の濠に落ちてしまい、その際、ハランベというゴリラが子供をつかんでひっぱり回したのだ。動物園側は、このゴリラを射殺するという対応に出た。そして論争が起きた。射殺という判断は正しかったのか。ハランベが子供を傷つけようとしていたのかどうか、はっきりしないではないか。麻酔銃を使うことはできなかったのか。
この現実の事件を正面から――いや、かなり斜め上から小説化したのが、須藤古都離のデビュー作『ゴリラ裁判の日』となる。それも、リーガルサスペンスだ。原告となるのは、射殺されたゴリラの「妻」であるローズ。ローズは人間の言葉を理解し、手話を使って会話できる特別なゴリラであった。その彼女が、動物園を相手に裁判を起こす場面から小説ははじまる。しかし、裁判官も陪審員も人間。状況は、圧倒的に不利だ。
手話ができる現実のゴリラといえば、2018年に死んだメスのローランドゴリラ、ココだろう。ココは子猫をペットのようにかわいがり、そして死の概念をも理解していたと言われる。「死んだゴリラはどこへ行くのか」と訊かれ、「苦痛のない穴にさようなら」と答えた、とされるエピソードは有名だ。ただ、本書のローズが明確な手話を使うのに対し、ココは独自の手話を用いており、本当のところは不明だとされる。
ともあれ、私たちがゴリラに惹かれるのは――そしてしばしば小説作品にゴリラを登場させるのは――彼らが人間並の知性を持ちうること、それゆえにゴリラという存在自体が人間存在を照射してくるからだろう。そしてまた、「苦痛のない穴にさようなら」に象徴されるような一種の野生のポエジーは私たちへの問いかけとなる。
現に、本書はリーガルサスペンスであると同時に、「人間と同等の知性を持つ存在とどう対峙すべきか?」という真っ正面の問いをはらむ。ゴリラ社会がディテール豊かに描かれる前半もいいが、筆者が好きなのは、後半部、アメリカ社会に渡ったローズの一代記――それも、ネジが1本2本飛んだような過剰でユーモラスな箇所だ。
白眉は、ローズの法廷闘争によって炙り出されるアメリカの理想、あるいはかつて理想としていたもの、そのアメリカの限界や可能性が導き出されるくだりだろうか。その観点に立つなら、本書は挑戦的なゴリラ小説であるとともに、アメリカ小説でもある。
なお、ココとハランベの2頭に対しては、本書の末尾で謝辞が送られているので、ローズら2頭のモデルと見ていいだろう。「もしハランベの妻がココであったら?」を極大化して考えた小説、と見ることもできそうだ。まずは、意欲の塊のような作家の誕生を喜びたい。
すどうことり/1987年、神奈川県生まれ。青山学院大学卒業。2022年「ゴリラ裁判の日」で第64回メフィスト賞を満場一致で受賞して、デビュー。年内に、新作『無限の月』を発売予定。
みやうちゆうすけ/1979年、東京都生まれ。作家。SFから純文学まで幅広く執筆。最新作は『かくして彼女は宴で語る』。