「ナイトホークス」1942年、油彩、84.1×152.4cm シカゴ美術館 ©ユニフォトプレス

 今やファストフード店に駆逐されてしまったが、二十世紀半ばのニューヨークにはこのようなダイナー(食堂車を模した簡易飲食店)が街角にたくさんあった。

 ハードボイルドの時代だ。

 タフでなければ生きられず、優しくなければ生きる資格がないと信じる探偵や、「昨夜はどこにいたの、今夜は会える?」と女性から聞かれて「そんな昔は忘れた、そんな先は知らん」とつれない返事をするカジノ経営者が(小説や映画の中に)いた時代である。大人の男のほぼ全員がソフト帽をかぶり、煙草をくゆらせていた時代でもある。

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 絵画にもそんな作品があって不思議はない。ホッパーのこの『ナイトホークス』(夜鷹、転じて夜更かしする人々の意)が代表格だろう。

 ここでも説明は最小限、登場人物の心理描写はなく、行動だけが描かれる。深夜の街。コーヒーカップを脇に煙草を吸う男とブックマッチを見つめる赤いドレスの女の微妙な距離感、ふと顔を上げる店のマスター、背を向けた男。誰も視線を交わさない。明るいカプセルに閉じ込められた四人に、これから何が起こるのか。

 このようなハードボイルド的雰囲気に、なくてはならぬ小道具が煙草だった。大昔はペストにすら効く万能薬と有難がられた煙草だが、当時すでにニコチンの害が明らかになり、ヒトラーは健康帝国を謳ってドイツから煙草を一掃していた。ところがアメリカの煙草産業界は、むしろ逆に大々的な宣伝攻勢をかけ始める。とりわけ効果的だったのは映画界との共同戦線であり、ハリウッドの大スターたちは莫大な報酬をもらってスクリーンで喫煙しまくった。

 観客はハンサムな男優や美人女優たちの煙草を吸う仕草に憧れた。おまけに煙草を吸うから素敵なのだと錯覚し、自分も煙草を吸えば彼らに近づけると、とんでもない思い込みにまで至ったのだから恐れ入る。かくしてアメリカ中に紫煙が漂った。

 今や煙草を吸うヒーローは絶滅危惧種だ。喫煙室で肩身を狭くしていてはボギーを気取れない。寡黙な男も単に馬鹿と見做されて生きにくい。そもそも謎めいた美女も存在しないものなあ、自己主張ばかりで(と男は思っているだろう)。

■葉巻のイメージ
これは店の上に設置された葉巻の看板だ。シガーリング(紙製の帯)を巻き、中央部がサツマイモ風に膨らんだ葉巻が一本描かれ、その下に「only 5¢」(=たった5セント)、横に大文字で「PHILLIES」(=フィリーズ)とメーカー名が記されている。葉巻に対して現代日本人が抱くステレオタイプなイメージは、「高級で香りが強く、扱いに手間がかかる」「大会社の会長やマフィアが吸う」といったところだろうか。

エドワード・ホッパー Edward Hopper
1882~1967
アメリカの孤独を描き続けた彼の絵には、中年の白人男女しか描かれていないとの指摘がある。本作が代表作。

中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。2017年「怖い絵展」特別監修者。最新刊は『ART GALLERY 第5巻 ヌード』。

怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)

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中野京子と読み解く 運命の絵

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