1974年、富士スピードウェイでマシン4台が爆発炎上、レーシングドライバー2名が事故死した、日本レーシング界未曽有の大事故が起きた。その後、静岡県警がレーサー1人を業務上過失致死の疑いで書類送検。

 長年、日本レース界最大のタブーとされてきた大事故の真相を、生き残ったレーサーたちに取材した『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』(中部博著)から、レースに出場していた漆原徳光氏の証言を抜粋し、掲載する。(前後編の後編/前編)

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瞬間的に「観客にどう見えるか」を考えていた

 その直後の漆原徳光の行動は、たったいま自分が、どのような立場にいて、何をしているのかを、正確無比に自覚しているものにしかなしえないことだ。その自覚ができる能力のことをインテリジェンス、つまり理知とか知性という。

「滑走がおわったので私は即座に飛び降りました。ロールバーに手をかけて飛び降りたときにガタンと音がして、私のクルマがすこし動いた。火が出ていたから、一目散に駆け出して逃げました。が、すぐにクルマへ引き返した。北野さんが逃げ出していないことに気がついたのです。

 この多重クラッシュ事故は、グランドスタンドから見える場所で発生したから、何万人もの観客が見ています。瞬間的に、人間というのは、そういうことを考えるものなのだなと思いますが、何万人の人たちが見ているというのに、ここで自分だけ逃げ出したら、あとで何をいわれるのかわかったものではない。人間というのは、あの場におよんでも、そういう計算をするものなんですよ。

 火が出ていたから、満タンのガソリンに引火して爆発する危険があることはわかっていましたが、できるかぎりのことしかできないだろうけれど、北野さんを救助しなければならないと思った」

©AFLO

 漆原徳光は「私はアマチュア・ドライバーだった」といっている。だから観客を楽しませるために走っているのではなく、自分がやりたいからやっているだけなのだという割り切りがあった。

 しかし彼は自分が、どのようなレースに出場しているのかを理解していた。5万人以上の観客が入場券を買って観戦する日本最高峰のレースシリーズに出場している。そのようなレースに出場しているレーシングドライバーとしてのふるまいについてはわきまえていた。

 5万人のレースファンの目が存在することを自覚していた。自分勝手なことはできないと知っていた。漆原徳光の意識のなかには観客という人間たちが存在していた。

 上下に重なって出火している2台のレーシングマシンのところまで駆けもどると、下になっている北野のマシンへむかって、大きな声で叫んだ、と漆原はいっている。