1974年、富士スピードウェイでマシン4台が爆発炎上、レーシングドライバー2名が事故死した、日本レーシング界未曽有の大事故が起きた。その後、静岡県警がレーサー1人を業務上過失致死の疑いで書類送検。

 長年、日本レース界最大のタブーとされてきた大事故の真相を、生き残ったレーサーたちに取材した『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』(中部博著)から、レースに出場していた漆原徳光氏の証言を抜粋し、掲載する。(前後編の前編/後編を読む)

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「抑えなさい」事故の予感に、頭をよぎった言葉

 そして第2ヒートのローリングがはじまる。スタート・ポジションは10番手で、5列目のイン側であった。ローリングは2周して、グリーンフラッグが振られた。漆原徳光の記憶の言葉をきいていく。

「ローリングのスピードは速かった。隊列は団子状態になって、マシンの間隔がつまっていた。みんなミーティングの言い合いで気持ちをたかぶらせていたから、そういう団子状態になっていたのだと思う。しかし危険を感じることはなかった。

 それでスタートしたら、一斉に横に広がり、先陣争いがはじまった。バンクに進入するベストなラインは一本しかないのだから、このままいけばどんな事故がおこるかわからないと私は思いました」

 そのときに漆原の脳裏をよぎったものは、田中健二郎の言葉であった。

©AFLO

 レースをはじめようと、神様と呼ばれた伝説のエンジン・チューナーである吉村秀雄の工場に出入りしているときに、田中健二郎と知り合った。その縁で折々に、このレーシングドライバーの重鎮は、ちょっとした言葉をかけてくれるようになった。好成績をあげるようになったときに、こういわれた。

「漆原さん、抑えなさい。レースは貸し借りの世界だよ」

 レースは貸し借りの世界だというのは、みずから『走り屋一代』を名乗った田中健二郎の信条である。プロの勝負師は、真剣勝負をするが、殲滅戦は絶対にしない。勝負師の世界で勝つということは、勝ったものの強さを、負けたものが認めたということだ。

 勝負の相手に、強いと認めさせられないものは、たとえ相手を力ずくで押さえ込み一度二度勝っても、真の勝利者になれない。負けたと思ったものは、素直に負けを認めて、ただちに勝負から身をひく。勝負を無理強いするのは、本当の強さがわからない素人だ。

 そして勝ったものは、負けを認めて勝負から身を退いたライバルの潔さを、借りだと思い、勝たせてもらったのだから、その借りはいつか返さなければならないと考える。どのように強いものでも、勝ちっぱなしはありえず、いつかは負けるときがくるからだ。そういう勝負師の倫理を、田中健二郎からおしえてもらっていた。

 もうひとり、富士スピードウェイの常務取締役であった森下春一にも真顔で「抑えなさい」といわれたことがあった。

「あなたはレーサーじゃあないでしょう。ほかの人生が用意されているのでしょう」

 そのあとにつづいた言葉は「勝てるときに勝てばいいので、無理をしてはなりませんよ」であった。森下春一は毎日新聞社事業本部長から転職して、富士スピードウェイ株式会社設立時に役員になった人物である。